孫子の言葉「上兵は謀を伐つ」の意味・活用ヒント・十一家の注釈を紹介します。名言・格言・熟語について、あれこれ触れていく教養・雑学コラムです。
関連:孫子全訳 / 孫子兵法 謀攻篇の解説
上兵は謀を伐つ とは
「上兵は謀を伐つ」(ジョウヘイはボウをウつ)
意味 上等な用兵はまず敵の謀を破る。 解釈 直接対決にて大きな被害が発生する前に、少ない労力で勝つことが大切。 出典 《孫子兵法・謀攻篇》:故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城、攻城之法、爲不得已。孫子兵法の三章目の謀攻篇(ぼうこうへん)を読むとあらわれる言葉が「上兵は謀を伐つ」です。
ここでの意味は、上兵は「上等な用兵・上手い軍事・ナイスな戦法」、謀は敵の「謀略・はかりごと」、伐つは「撃つ・たたく・破る」などと解釈できます。解釈の根拠の一部として十一家の注釈紹介を後述します。
この言葉は、被害をおさえて「戦わずして勝つ」大切さを説く流れで登場する言葉です。謀略→外交や交友→兵→城攻め、の順番に軍事におけるオススメの狙いを挙げています。また、後半の城攻めは大きな被害が出るので攻め手としては下法だとも言っています。
つまり、なるべく被害を出さずに成功を収めることの大切さを述べた言葉と捉えることができます。
この言葉についてもう少し色々な角度から触れていきます。
上兵は謀を伐つ 活用ヒント
「上兵は謀を伐つ」
活用ヒント 競いごとは負担がかかること。その負担を減らせば効率的。 活用ヒント 負担が大きいことは良く考えて行動しよう。孫子に限った事ではありませんが、名言・格言・コツというのは抽象化すると異なる分野のヒントとしても参考になる場合があります。
「上兵は謀を伐つ」で言うと、上兵(ナイス軍事)を「うまいやりかた」とボカした言い方に変化させ、謀(謀略)を「相手の思惑」と捉えると、ひろく違う分野のヒントとしても馴染ませやすくなります。
「上手いやり方は、まず敵の思惑をたたく、つぎに敵の連携をたたく、つぎに敵の外殻をたたき、その下は本体を力攻にする。」
被害を出さないことが大切で、叩く順番は活用する分野によって変化し、これ限定して解釈する必要はありません。
上兵は謀を伐つ 十一家注
「上兵は謀を伐つ」にまつわる注釈を十一家注孫子からご紹介します。以下のような注釈や他の文献などを受けて、足したり引いたりしながら解釈は成り立っています。
[数字]は便宜上つけたもので、原文にはありません。
[一]故上兵伐謀、
曹操曰く、始めに敵の謀あらば、これを伐つに易し。
※曹操の注の補足
解釈:敵の思惑が露見しているなら、これを叩くのはやさしい。
李筌曰く、その始謀を伐つなり。後漢の寇恂は高峻を囲み、峻(高峻)は恂(寇恂)に謁するに謀臣皇甫文を遣わせるも、辞礼(言辞・礼儀)を屈くさず(つくさず・へりくだらない)。恂はこれを斬し、峻に報いて曰く「軍師は無礼にして、すでにこれを斬る。降るを欲さば、急ぎ降れ、欲さずば、守り固めよ!」峻は即日壁(城門)を開きて降る。諸将曰く「敢えて問うにその使いを殺めてその城を降すは、何や?」 恂曰く「皇甫文、峻の心を腹し、其の謀を取る者。これを留めればすなわち其の計を文が得て、これを殺めればすなわち其の膽(胆・きも)を峻が亡くす、いわゆる上兵は謀を伐つ。」諸将曰く「知る所にあらず也。」
※李筌の注の補足
《後漢書》にある寇恂の伝記から「上兵は謀を伐つ」がらみの記述を李筌が引用した注釈です。光武帝が高峻を攻めるために寇恂軍を派遣して包囲、そのときの戦史エピソードです。腹にいちもつが有ると見た寇恂は、軍師の皇甫文をまっさきに除いて謀略を防ぐという話の流れです。
杜牧曰く、晋平公(姫彪)は斉を攻むるを欲し、范昭(晋の臣、范昭子)を住まわせしめこれを観る(観察する)。景公(斉景公・姜杵臼)これに觴す(ショウ・酒盃をすすめる)。酒酣(酔いがまわる様)し、范昭は君(斉の君主・景公)に罇酌(樽酌・おしゃく)を請う。
公(斉景公)曰く「寡人(王公が自分を指す言葉)の罇(樽・たる)を客に進めん。」范昭はなはだ飲み(がぶ飲みして)、晏子(斉の臣、晏嬰)は罇(樽)を更め酌を為すを徹す(樽などを除外して酒を飲めなくさせた)。
范昭は佯醉(酔いを偽り)し、悦ばずして舞起き、太師(天子教育の官職)に曰く「我れ周の楽(音楽)の奏を成す(作り上げる)をよく為すや?吾がためにこれを舞わん。」太師曰く「瞑臣(盲目の臣)は習わず(盲目ゆえ習わず)。」范昭は趨き出る(あしばやに出た)。
景公曰く「晋は大国なり、吾が政を来りて観ん。いま子は大国の使者に怒れり、まさにいかんせん?」晏子曰く「范昭を観るにいやしく礼者に非ず、且つ国の慚(ザン・好意)を欲すも、臣ゆえ従わざるなり。」
太師曰く「それ周の楽を成すは、天子の楽なり、人の主をおもうにこれを舞う、いま范昭は人の臣なりて、天子の楽を舞を欲すも、臣ゆえ為さざるなり。」
范昭は帰して、晋平公に報いて曰く「斉はいまだ伐つ可からず。臣は其の君の辱めを欲すも、晏子はこれを知り、臣は其の礼を犯すを欲すも、太師はこれを識る。」
仲尼(孔子・孔丘)曰く「罇(樽)と俎(供物用具のまないた・犠牲)の間を越さずして、千里の外に折衝するは、晏子これをいう(晏子のことをいうのだ)。」
春秋時、秦は晋を伐ち、晋将の趙盾はこれを禦ぐ(ふせぐ)。上軍佐(官名)の臾駢曰く「秦は久しきにあたわず、塁を深め(砦の堀を深め)軍を固くするをもってこれを待つ(待ち受ける)を請う。」
秦人(しんひと、秦国の人)は戦を欲し、士会(晋から秦に移った秦将)は秦伯(秦の長・秦の王)に曰く「いかにして戦わん?」対して(こたえて)曰く「趙氏(晋の趙盾)は其の属を新しきに出た臾駢(晋将)を曰うに、実を為すに必ずこれを謀り、まさに老を以て我が師とするなり。趙(趙盾)は側室あるを穿(趙穿・趙盾のいとこ)を曰うに、晋君の婿なり、寵(寵愛)あるも而して弱く、軍事に在らず、勇を好みて狂い、且つ臾駢を悪み(にくみ)これを佐上軍とす。軽き者を肆(ほしいまま)にせしむるがごとく、それ可。」
秦軍の掩(援軍)を、晋の上軍、趙穿これを追うも及ばず、返り、怒りて曰く「裹糧坐甲注1※裹糧坐甲=糧の裏で鎧を着て寝る、なまけの様子をあらわす熟語、語出《春秋左傳・文公十二年》、固き敵をこれに求め、敵に至るも撃たずして、何をか俟(待)たんや?」軍吏曰く「将待ちあれ」穿(趙穿)曰く「我れ謀を知らず、まさに獨(独)り出ん!」すなわち以て其の属を出る(士会の策と趙穿の打算による単独出撃)。
趙盾曰く「秦が穿(趙穿)を獲るは、一卿を獲るかな(ひとりの上位階級の人材を得ることになる)、秦の勝つを以て帰すは、我れ何を以て報わん?」すなわち皆な戦に出、交を綏(やすんずる)をして退く(全軍で趙穿を救出して退いた)。
それ晏子の対(晏子の話しのこたえ)、是の敵人の将の謀を我れが伐つに、我れ先に其の謀を伐つ、故に敵人は得ずして我は伐つ。士会の対(士会の話しのこたえ)、是の我が将の謀を敵が伐つに、敵人の謀あるを我が拒めば、すなわち其の謀を伐ち、敵人は与(仲間)を得ずに我と戦う。この二者、みな謀を伐つなり。故に敵が我に謀するを欲せば、(敵の)その未形の謀を伐つ、我れもし敵を伐つとき、(味方の)そのすでに成りしこの計で敗ぶり、非を固め一に止めん。
※杜牧の注の補足
杜牧が《史記》《春秋左氏伝》などの記述から早期に謀を除いた戦史エピソードを引用した注釈です。
前者は斉国の晏子(斉の宰相、晏嬰)と太師(官名)が、斉国を狙う晋国の范昭のうごきを警戒したエピソード。後者は秦国の士会の謀を、晋国の趙盾が防いだエピソードです。
種類の違う「謀を伐つ」エピソードをあげて、「謀を伐つ」方法には色々なものがあるのだと示した注釈です。
このような戦史を引いた注釈は、背景をしらなければ読み難く、くどいものですが、言い換えれば新たな教養を得るきっかけにもなる楽しみを含んでいます。
孟氏曰く、九攻九拒注2※九攻九拒=激しい攻防の様子をあらわす熟語、語出《墨子・公輸》)、これ其の謀なり。
杜佑曰く、敵方、謀を設えるは(しつらえるは)、衆の師を挙げるを欲し(大軍を動員して)、伐ちてこれを抑える、これ其の上。ゆえに太公注3※太公=ここでは太公望・呂尚の言行をさします、文面は《六韜・軍勢》を引いたもの。)に云う、「善く患(わざわい)を除くものは、未だ生ぜざるに理む(おさむ)、善く敵に勝つものは、形無きに勝つ」なり。
※杜佑の注の補足
謀略の芽を戦力で除くことができるならそれも良しとする、と解釈できます。
梅堯臣曰く、智を以て勝つ。
王晳曰く、智を以て謀り人を屈じく(くじく)を最たる上とす。
何氏曰く、敵、我を攻むるに始めに謀るとき、我れ先にこれを攻むるに、易し。敵人の謀の趣向を知りて揣り(はかり)、因りて兵を加え、其の彼の心の発を攻むるなり。
※何氏の注の補足
解釈:敵の謀を露見し、それを元に軍を動かし、思惑をたたく。
張預曰く、敵、始めに謀を発せば、我れ従いてこれを攻め、彼の心の喪う計をして屈服させること、晏子の范昭を沮む(はばむ、阻む)是のごとし。あるいは曰く「謀を伐つは、謀を用いるを以て人を伐つなり。」言うに奇策秘算を以て、戦わずに勝ちを取るは、これ上なる兵なり。
※張預の注の補足
晏子の范昭をはばむエピソードは《春秋左伝》や、上記の杜牧の注でみることができます。
謀をたたいて屈服させるのがよく、戦わずして勝つのは上兵(うまい軍事)。
[二]其次伐交、
曹操曰く、交、将合なり。
※曹操の注の補足
将合というのは将の合(合意・集合・合一・合致・和合・談合など)、つまり将同士が何らかの形でまとまっている様子をさしています。
これによるならば交の解釈に「人の交わり」を含めて差し支えないことが分かります。
李筌曰く、その始めに交を伐つなり。蘇秦(戦国の縦横家)は6国(燕・趙・韓・魏・斉・楚)を約め(つづめ、まとめる)秦に事せずして、秦、閉関(関係を閉ざす、孤立)すること十五年、敢えて山東を窺わざるなり。
※李筌の注の補足
縦横策の大家、蘇秦(そしん)が六国をまとめ、強国の秦を封じたことをもって「交を伐つ」の説明を補強した注釈です。
付け加えると、秦は後に六国の「交を伐ち」秦の始皇帝(嬴政)による統一に繋いでいます。広義においては「謀まで伐った」かたちです。六国と秦の関係について詳しく知りたい場合は「合従連衡(がっしょうれんこう)」などのキーワードで辿ってみて下さい。
杜牧曰く、将合を止めるに非ずして已むは、合の者みな伐つべきなり。張儀(戦国の縦横家)、楚懐王に秦の地600里を献願し、斉との交を絶つを請う。
隨何(漢の劉邦の外交官)、黥布(英布)に坐上(席上)の楚の使者を殺めさせ、以て項羽を絶つ。
曹公(曹操)と韓遂は馬を交えて語り、以て馬超を疑す(疑わせる、疑心をあたえる)。
高洋(北斉の初代皇帝、文宣帝)、蕭淵明(侯景の乱の誘発の立役者)を以て梁(梁王朝)に和を請い、以て侯景(梁の宇宙大将軍)を疑し、終に台城を陷す(おとす)
これみな交を伐つ。権道の変化、一途に非ずなり。
※杜牧の注の補足
縦横策の大家の張儀(ちょうぎ)の外交策、隨何の外交策、曹操の離間の策、文宣帝の計略の4エピソードで「交を伐つ」を説明した注釈です。
杜牧の注によるならば、交の解釈に「外交・親交・交友」などを広く含めて差し支えなさそうだと分かります。
陳皥曰く、あるいは云う敵すでに師を興し合を交えるとき、伐ちてこれに勝つは、是れ其の次なり。もし晋文公(晋の君主、春秋五覇の一角、姫重耳)が宋に敵するとき、携離注4※携離=離心、背反、離間の意味を持つ熟語、《晋書・王雅伝》などにも登場。するは曹、衛なり。
※陳皥の注の補足
晋文公は数奇な運命をたどり、放浪生活を経てのちに覇者となった人物です。小説の題材としても用いられていて、背景を追いやすい有名人です。詳細は晋文公や重耳などのキーワードで検索してみて下さい。
孟氏曰く、強国、合を交えるとき、敵、敢えて謀らず。
※陳皥の注の補足
強国と結べば敵は手出しできない、と解釈でき、そのようにとれば味方の「交を伐たせない」防御策を示したものと見ることができます。
梅堯臣曰く、威を以て勝つ。
※梅堯臣の注の補足
攻防に効いた注釈です。威を以て彼の交を伐ち、威を以て我が交を守る。このようにも捉えることができます。
王晳曰く、いうに未だ敵の謀を屈く(くじく)を全うする能わざるは、その交の間に当たりながら、これを解散せしむ。彼の交すなわち鉅(はがね)の敵は堅く、彼の交わらずはすなわち小敵の脆(ぜい、もろき)なり。
※王晳の注の補足
敵の謀をくじくことができなければ、その交をたたく。交が強固な敵は堅く、交が薄い敵は脆い。と解釈できます。
何氏曰く、杜を称えること四事注5※四事=仏語、四時供養、臥具・衣服・飲食・湯薬。の上なるは、すなわち「親してこれを離す」の義なり。交を伐つとは、兵の合の交わりを欲し、疑兵を設えるを以てこれを懼れ(おそれ)、進退を得ざらしめ、因りて屈服に来す(きたす)。旁鄰注6※旁鄰=近隣・隣居の意、《説苑・権謀》などにも登場すでに我の援け(たすけ)と為せば、敵の弱めること孤(コ、孤立、孤独)ならざるを得ずなり。
※王晳の注の補足
社(社稷・社祀)をねんごろに称えるのは「親而離之《孫子・作戦篇》」の効果が有る。「交を伐つ」には兵の合を乱して屈服させる。味方の交を固めれば、敵は味方を孤立させて弱めることができない。と解釈できます。
張預曰く、兵将戦を交えるとき、将合すなわちこれを伐つ。傳(佐伝注7※傳=ここでいう伝とは春秋左伝をさしています。文面は《春秋左氏伝・昭公二十一年》から引いたもの。)に曰く「人に先んじて人の心を奪うにあり。」いうに両軍の将合、すなわち先ずこれを薄くし、孫叔敖(春秋の楚の公族、賢相)晋の師(部隊、2500人)これを敗ること、厨人注8※厨人=ちゅうひと、宋の厨邑の人《左伝・杜預の注》、厨邑大夫、または料理人《左氏会箋》とも)の濮(濮という人名)、華氏注9※華氏=華一族、戴族《左伝・杜預の注》を破ることこれなり。或いは曰く、交を伐つ者、交を用いるを以て人を伐つなり。言うに兵を挙げて敵を伐たんと欲するとき、まず隣国と結びて掎角の勢(二点に構える、挟み撃ちの構え)を為せば、すなわち我を強くして敵を弱くす。
※張預の注の補足
前半、孫叔敖が晋軍を破ったこと、厨人の濮が華氏を破った2例の戦史を引いて「人に先んじて人の心を奪うにあり」を説明したもの。後半、味方の交を補強すれば、相対的に敵を弱体化させられるという説明。
両者の戦史は《春秋左伝・昭公二十一年》《呉越春秋》などにあります。
[三]其次伐兵、
曹操曰く、己が兵形を成すなり。(己が兵形の成すことなり)
※曹操の注の補足
自分の兵の状態・形勢をととのえる、自分の兵の状態・形勢で行うこと、などと解釈できます。
李筌曰く、敵に対陣して臨むは、これ下の兵なり。
※李筌の注の補足
大きな被害が出かねない点でほかの伐謀・伐交に劣ると解釈できます。
賈林曰く、善きに攻め取るに、挙げて遺策注10※遺策=前人の残した計、語出《文選・賈誼・過秦論》または失策、語出《漢書・枚乘伝》無きは、また其の次なり。故に太公曰く注11※太公曰く=太公望・呂尚の言行、《六韜・軍勢》にいわく「勝を白刃の前に争うもの、良将に非ざるなり。」
※賈林の注の補足
前半、計画無く攻めるのはだめ、失策無く攻めるのはよし、などと解釈できます。後半、六韜を引いて被害の出る戦い方はよくないと説明した注釈です。
梅堯臣曰く、戦を以て勝つ。
王晳曰く、戦は危事。
※王晳の注の補足
戦はいろいろ被害を出しかねないことだと説明した注釈です。
張預曰く、其の始めの謀を敗るあたわざれば、其の将合を破る、すなわち犀利注12※犀利=堅く鋭利な、語出《漢書・馮奉世伝・顔師古注》なる兵器を以てこれに勝つ。兵とは、器械(兵器)の総名なり。太公(六韜)曰く「必勝の道、器械を実(充実)す。」
※張預の注の補足
これによるならば兵の解釈に「兵器」を含めて差し支えないことが分かります。
[四]其下攻城、
曹操曰く、敵国すでに城を守らば其の外に糧を収む(徴収)、この攻は下の政(まつりごと)とす。
※曹操の注の補足
篭城戦は長期戦になる、だから食糧を外から追加で用意しなくてはならない、この攻めは政治的にも下、と解釈できます。
李筌曰く、それ王の師が境を出れば、敵すなわち壁(城門)を開き送款注13※送款=ソウカン、城ごと投降の意、語出《梁書・侯景伝》し、櫬(カン、ひつぎ)を轅門(エンモン、軍門、外門)に挙げ、百姓(ヒャクセイ、多くの民)は怡悦(イエツ、よろこぶの意)す、この攻は上なり。もし堅き城の下に兵を頓けば(くじけば)、師(部隊)の老卒は惰り(おこたり)、攻守の勢は殊なり(ことなり、殊別、バラバラ)、客の主は力を倍す(ます)、これを以てこれを攻めんとするは下なり。
※李筌の注の補足
城を被害無く降伏させるのがよく、力攻めにして労するのは下、と説明した注釈です。
杜佑曰く、言うに城を攻め邑を屠りし、下の攻は、害するもの多き所なり。
※杜佑の注の補足
攻城は被害が大きいものだと解釈できます。
梅堯臣曰く、財と役(兵役)を費すは最下とす。
※梅堯臣の注の補足
攻城に長くお金と労力を注ぐのはよくないと解釈できます。
王晳曰く、士卒は殺傷し、ある城いまだ克たず。
※王晳の注の補足
軍の被害を犠牲にし、それでも城は落とせない、と解釈できます。攻城の被害をしめした注釈と捉えることができます。
張預曰く、それ城を攻め邑を屠るは、財を費やし老の師を惟わず(思わず)、また害するもの多き所を兼ねる、是れ下者の攻とす。
※張預の注の補足
攻城や拠点攻めは、散財・疲労など諸々の被害を出しかねない、これ下、と解釈できます。
[五]攻城之法、爲不得已。
張預曰く、攻城すなわち力を屈く(くじく)、必ず攻むる者のゆえん、蓋し(けだし)獲ざるのみ。
※張預の注の補足
攻城はつまり味方の力を挫く行為であり、それでも攻める理由とは、思うに他に獲る手段が無いときのみである、と解釈できます。
■脚注リスト(本文ボタンで該当箇所にジャンプ)
1. | 本文へ | ※裹糧坐甲=糧の裏で鎧を着て寝る、なまけの様子をあらわす熟語、語出《春秋左傳・文公十二年》 |
2. | 本文へ | ※九攻九拒=激しい攻防の様子をあらわす熟語、語出《墨子・公輸》) |
3. | 本文へ | ※太公=ここでは太公望・呂尚の言行をさします、文面は《六韜・軍勢》を引いたもの。) |
4. | 本文へ | ※携離=離心、背反、離間の意味を持つ熟語、《晋書・王雅伝》などにも登場。 |
5. | 本文へ | ※四事=仏語、四時供養、臥具・衣服・飲食・湯薬。 |
6. | 本文へ | ※旁鄰=近隣・隣居の意、《説苑・権謀》などにも登場 |
7. | 本文へ | ※傳=ここでいう伝とは春秋左伝をさしています。文面は《春秋左氏伝・昭公二十一年》から引いたもの。 |
8. | 本文へ | ※厨人=ちゅうひと、宋の厨邑の人《左伝・杜預の注》、厨邑大夫、または料理人《左氏会箋》とも) |
9. | 本文へ | ※華氏=華一族、戴族《左伝・杜預の注》 |
10. | 本文へ | ※遺策=前人の残した計、語出《文選・賈誼・過秦論》または失策、語出《漢書・枚乘伝》 |
11. | 本文へ | ※太公曰く=太公望・呂尚の言行、《六韜・軍勢》にいわく |
12. | 本文へ | ※犀利=堅く鋭利な、語出《漢書・馮奉世伝・顔師古注》 |
13. | 本文へ | ※送款=ソウカン、城ごと投降の意、語出《梁書・侯景伝》 |