李筌の伝記と著書リスト(雲溪友議・太平御覧・太平広記ほか)より

李筌(りせん)の伝記・物語と著書リストを紹介します。

李筌は《太白陰經》など様々な書を著し、《孫子》や黄帝《陰符経》などに注釈を加えるなどした文章と注釈の人物です。

若い頃は官職に就き、やがて政争に巻き込まれて職を追われると、道家・兵家・占星・五行・神仙などの道にすすんだと云われ、それらに関連する書が現在にも伝わっています。

今回紹介する李筌の伝記・物語では、特に神仙の道に関するエピソードが多く語られていて、物語としても魅力的です。

李筌の伝記まとめ

こちらを選択すると現代語意訳のみがあらわれます。次項以降はそれに加えて原文・訳文・補足文を記載しています。

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李筌の伝記

李筌の伝記は《雲溪友議》《太平御覧》《太平廣記》《郡齋讀書志》などから求めることが出来ます。

李筌の著書のリストは《新唐書》《宋史》などから求めることができます。リストには単独の著書以外にも集注としてまとめられた書も含みます。

【凡例】原文に対して【原文語に則した訳】と【まとめ意訳】および補足がつきます。

李筌の著書・集注リスト(新唐書・宋史)より

新唐書より

閫外春秋 十巻 《新唐書・志・藝文2・乙部史録・雜史類
中台志 十巻 《新唐書・志・藝文2・乙部史録・雜伝記類
集注陰符經 一巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・道家類 ※1
驪山母傳陰符玄義 一巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・道家類 ※2
李筌注孫子 二巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・兵書類
太白陰經 十巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・兵書類
青囊括 一巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・兵書類
六壬大玉帳歌 十巻 《新唐書・志・藝文3・丙部子録・五行類

※1 各家の注釈をまとめた書、集注の対象者は李筌を含む以下の11名(太公望呂尚、范蠡、鬼谷子王詡、張良、諸葛亮、李淳風、李筌、李洽、李鑒、李銳、楊晟)

※2 筌。少室山の達觀子を号す、嵩山の虎口巖石壁より黃帝陰符本を得る、題に云う、「魏の道士寇謙之が諸名山に傳う。」筌は驪山に至り、老母其の說を傳う。

宋史より

黃帝陰符經 一巻 《宋史・志・藝文4・子類・道家類 ※3
陰符經疏 一巻 《宋史・志・藝文4・子類・道家類
玉帳歌 十巻 《宋史・志・藝文5・子類・五行類
金華經 三巻 《宋史・志・藝文5・子類・五行類
通幽鬼訣 二巻 《宋史・志・藝文6・子類・兵書類
太白陰經 十巻 および、
占五行星度吉凶訣 一卷、
注孫子 一卷、
閫外春秋 十卷。
《宋史・志・藝文6・子類・兵書類

※3 舊目(旧目録)に云う、驪山老母注、李筌の撰。

著書についての解説・補足

上のリストのうち重複しているものを併せて考えると、李筌の著書(集注を除く)は

  • 閫外春秋
  • 中台志
  • 驪山母傳陰符玄義
  • 注孫子
  • 太白陰經
  • 青囊括
  • 六壬大玉帳歌(玉帳歌)
  • 黃帝陰符經
  • 陰符經疏
  • 金華經
  • 通幽鬼訣
  • 占五行星度吉凶訣

の12種の書が両史に挙げられていることになります。

現在にも伝わり、書籍やデータベースなどで比較的簡単に読むことが出来る書はこのうち《閫外春秋》《注孫子》《太白陰經(神機制敵太白陰経)》《黃帝陰符經》です。

李筌の伝記(雲溪友議・南陽録)より

(唐)範攄《雲溪友議・南陽錄》より

李筌郎中為荊南節度判官、集《閫外春秋》十卷。既成、自鄙之、曰、「常文也。」乃注黃帝《陰符經》、兼成大義、至「禽獸之制在氣」、經年懵然不解。忽夢烏衣人引理而教之。其書遂行於世、僉謂鬼谷、留侯複生也。所謂玄龜食蟒、黃腰服虎、飛鼠斷猿、稂嚙鶴、以小服大、皆得烏衣之旨、筌遂通其義也。筌後為鄧州刺史、常夜占星宿而坐。一夕、三更、東南隅忽見異氣、明旦、呼吏於郊市、「如產男女者、不以貧富、悉取至焉。」過十餘輩、筌視之曰、「皆凡骨也。」重令於村落搜訪之。乃得牧羊胡婦一子、李君慘容曰、「此假天子也。」座客勸殺之、荃以為不可、曰、「此胡鶵必為國盜、古亦有然、殺假恐生真矣。」則安祿山生於南陽、異人先知之矣。梁代《志公讖》曰、「兩角女子綠衣裳、端坐太行邀君王、一止之月自滅亡。」解曰、「兩角女子、安字也、綠衣、祿字也、太行、山字也、一止、正字也。」祿山果於正月死也。後李遐周讖曰、「樵市人將盡、函關馬不歸、道逢山下鬼、環上系羅衣。」又曰、「此天下之事、不可卒去。」是以石勒致鹿奔之兆、桓玄動星光之瑞、王夷甫、宋高祖非不欲早害玄、勒、稱於太平、殺之不得耳。梁武帝視太白之變、而下殿奔、後愧於夷狄之主。凡為大盜者、必有異也。筌首知之、知之而不可禳也。

【原文語に則した訳】
李筌は荊南節度判官の郎中と為り、《閫外春秋》十巻を集す。既に成すも、これ自らを鄙しみて(いやしみて)曰く「常文(じょうぶん)なり。」すなわち黃帝《陰符經》に注し、大義を兼ね為すも、「禽獸の制、氣に在り」に至り、年を経るも懵然(ぼうぜん)として解さず。夢忽か(おろそか)にする烏衣の人を理して引きこれに教わる。その書は世に遂行す、みないう鬼谷(鬼谷子、王詡)、留侯(張良)に複び生ずるなり。いわゆる「玄亀(赤黒い亀の怪物)が蟒(オロチ)を食し、黄腰(ミツバチ)が虎を服し、飛鼠(ヒソ。コウモリ・ももんが)が猿を絶つ」(《陰符經》内の一句)、小を以て大を服すとし(李筌の陰符經注釈の一文)、烏衣の旨をみな得て、筌(李筌)ついに其の義に通ず。

筌、のちに鄧州刺史となり、常夜に坐して占星宿(宿曜占星術)をす。一夕の三更、東南(たつみ)の隅に忽ち(たちまち)異氣を見る、明旦(明朝)、吏(役人)を市の郊(郊外)に呼ぶ、「男女の産むの如きは、貧富を以てせず、悉く(ことごとく)取るに至らんか。」十余過の輩(ともがら)、筌これを視て曰く「みな凡骨なり。」村落に重令し之を搜訪せしむ。すなわち牧羊胡の婦(牧羊異民族・突厥の婦)と一子を得る、李君(李筌の君)慘容を曰く「これ假(仮)天子なり。」座客(ざかく)にこれを殺むるを勧むも、荃、以て為すべからざらんとして曰く「この胡鶵(こすう)必ず国を盗らんとし、古にまた然ありて、假を恐れ殺めて真に生きんや。」

すなわち安禄山は南陽(范陽?)に生じ、異人まずこれを知る。梁代《志公讖》に曰く「両角の緑衣裳の女子、太行の端に坐し君主に激し、一止の月に自ら滅亡す。」解に曰く「両角女子、安の字なり。綠衣、祿の字なり。太行、山の字なり。一止、正の字なり。」祿山はたして正月に死すなり。

のち李遐周(唐代の人)、讖して曰く「樵の市人は将に尽くすも、函關(函谷関)の馬は帰らず、山下の道に鬼と逢い、環上に羅衣を系ぐ(つなぐ)」また曰く「此れ天下の事、卒(にわか)に去るべからず。」

これ石勒を以て鹿奔を兆すに致り、桓玄(桓楚の初代皇帝)は星光の瑞に動き、王夷甫(西晋の王衍、竹林七賢の王戎のいとこ)、宋高祖(劉裕)玄を早く害するを欲せざるにあらず、勒(石勒)、太平を称すも、これを殺むを得ざるのみ。梁武帝(蕭衍)太白(金星)の変を視て、而して下殿(仏寺)に奔し、後に夷狄の主に愧す。

凡そ盜者が大を為すは、必ず異あるなり。筌、この首を知り、これを知りて禳う(はらう)べからざるなり。

 まとめ 【まとめ意訳】

李筌は荊南節度判官の近衛となり、《閫外春秋》十巻を編著した。完成させた自著をいやしみ、こう言った「つきなみである。」のちに黄帝の《陰符經》に注釈を加え、大義(真意)を兼ねようとしたが「禽獸の制、氣に在り」の境地に至り、年数を経てもぼんやりとして理解できなかった。世俗を離れた隠者に究理をもとめて教えを乞う。黄帝の《陰符經》は広く伝わり、鬼谷子の後に張良が会得した。いわゆる《陰符經》の「赤黒い亀の怪物(玄武とは異なる)がオロチを喰らい、ミツバチが虎を制し、コウモリが猿を断つ」というのは、小で大を制するものとして、隠者の要旨を心得て、李筌はついにその義に通じることができた。

李筌はのちに鄧州刺史となり、夜な夜なじっと占星宿(宿曜占星術)にふけった。深夜、東南(たつみ)の方角に只ならぬ気を察し、明朝、(その方角の村の)役人を郊外に呼びつけ言った「出生は、貧富に関係なく行われる、(怪しい)出生を把握していないのか?」十数人の役人をこのようになじった「みな凡骨である。」村に緊急指令を出して(怪しい子)を探させた。そうして突厥の婦人と一子をとらえた。李筌の上司は(呼びつけて)李筌の凄惨をこう言った「ニセ皇帝のようなふるまいだ。」同席の者に李筌を処断するよう勧めたが、李筌はそうはさせまいと言う「この異民族の童子は必ず国を取ろうとするだろう、古に前例もある、いまニセ皇帝を恐れ処断して、それで後まで本当に生きていけると思うのか?」

異民族の害の例として范陽の地に「安史の乱」の端を発した安禄山が知られる。梁の志公禅師の《志公讖》に云われている「両角(両脇)の緑衣裳の女子、太行(山)の端に坐し君主に激し、一止の月に自ら滅亡す。」これについてこのような解釈がある「両角女子は安の字をさす。綠衣は祿の字をさす。太行は山の字をさす。一止はあわせて正の字をさす。」安禄山はこのとおり757年正月に暗殺されている。

のち唐の李遐周の予言にこのようなものがある「きこり商人(または樵の地の住人)は将に尽くしても、函谷関の馬は帰らず、やまのふもとの道で魂魄(霊魂)に遭遇し、天体の星々に衣装をつなぐ。」またこのようにも云われる「これ天下の事はあわてて行うべきではない。」

これは羯族(または匈奴・南匈奴)の石勒が天下を狙う兆しを示しているとし、桓玄(桓楚の初代皇帝)は天体の輝きを見て動き、宋高祖(劉裕)は桓玄を早く討たんと願わずにはいられず、王夷甫(西晋の王衍)の処断について、石勒は穏便な処置をとなえたが、(賛同を得られずに配下の孔萇の勧めで)結局処断されることになった。梁武帝(蕭衍)は太白(金星)の変化を視て、仏教に帰依し、のちに諸外国の君主らに愧じた(はじた)。

およそ盗人が大事を為すのは、必ず異(異国が絡む事柄)がつき物である。李筌はこの要を知り、これを知りながらはらいのけることが出来なかった。

 教養 ※荊南節度判官=けいなんせつどほうがん。荊南(江陵あたりの地方)の節度使(地方統治)の官。文官。献策なども行う。※郎中=ろうちゅう。近衛。※常文=じょうぶん。常法の文、つきなみな文章、つまらない文章の意。※懵然=ぼうぜん。ぼんやりしているさま。懜然。呆然。語出(唐)白居易《與元九書》「~其他懵然无知。」(そのほか懵然として知ることなし)。※鄧州=南陽あたりに置かれた州。※烏衣=うい。ここでは黒色の衣、古代の貧賤者の服。語出《三国志・魏書・鄧艾伝》。※一夕=ここでは一夜、一晩のこと。※三更=五更の3番目の刻。夜中の12時すぎ辺りの時間。丙夜。子の刻。※異氣=ここでは、非凡な才気の意。語出(三國・魏)嵇康《養生論・神仙》、(六朝・晋)葛洪《抱樸子・對俗》。※慘容=ざんよう。ようすの凄惨たるさま。語出(唐)裴铏《伝奇・孫恪》。※胡鶵=こすう。異民族のヒナ、異民族の童。その蔑称。語出(唐)岑参《衛節度赤驃馬歌》、《晋書・石勒载記上》。※函關=かんかん。函谷関の略称。語出(隋)楊素《贈薛播州》「函關絶無路、京洛化為丘。」※羅衣=らい。うすもので仕立てた衣服。語出(後漢)辺譲《章華賦》、(三国・魏)曹植《美女篇》、(唐)杜甫《黄草》など。 ※星光=星々の光輝。語出、(南朝・宋)鲍照《芙蓉赋》、(唐)李賀《送秦光禄北征》※鹿奔=かほん。鹿が奔走する様子。鹿は帝王の位を意味し、帝位を狙って奔走するさまを指すと解す。

李筌の伝記(太平御覧・道部20)より

(北宋)《太平御覧・道部20》より

《集仙錄》曰、驪山姥、不知何代人也。李筌好神仙之道、常歷名山、博彩方術。至嵩山石室中、得黃帝陰符經本絹素書緘之甚密、題云、「大魏真君二年七月七日、道士冠謙之藏之名山、用傳同好。」筌竟不曉其義、因入秦、至驪山下、逢一老母、髽髻當頂、餘發半垂、弊衣扶杖、神狀甚異。路旁見遺火燒樹、因自語曰、「火生於木、禍發必克。」筌聞之、前謁、曰、「此黃帝陰符經秘文也。」母曰、「吾授此經己三元六周甲子、少青從何而得知?」筌稽首再拜、具告得經之所、因請問玄義、盡得之。俄失姥。

【原文語に則した訳】
《集仙錄》に曰く、驪山(りざん)の姥、何代の人か知らず。

李筌は神仙の道を好み、常に名山を歴り(めぐり)、方術(神仙術、法術、易占などの術)の彩に博し。

嵩山の石室の中に至り、甚だ密にこれを緘した黃帝《陰符經》本絹の《素書》を得る、題に云う「大魏(北魏)の真君(太平真君)二年七月七日、道士の冠謙之が名山にこれを蔵す、同好なれば用い伝えよ。」李筌は不曉その義を竟る(おえる)、因りて秦に入り、驪山の下に至り、一老母に逢う、頂に髽髻(2つに結い分けた髪型)を当て、餘り發(髪)を半ば垂らし、弊衣(ぼろ衣装)に扶杖し、神なる状は甚だ異にす。

路(みち)旁(かたわら)遺火に燒かれし樹を見、因りて自らを語りて曰く「火は木より生じ、禍を發しては必ず克つ。」筌(李筌)これを聞き、前に掲げ、曰く「この黃帝《陰符經》に秘めし文なり。」

母曰く「吾れこれを授かるにすでに三元を経ること甲子を六周す、少青(若者)何に従いて知り得たるや?」筌は首なる稽え(かんがえ)を再び拝し、經の得たる所を具告す、因りて玄義の問いを請い、これを得るを尽す。

姥は俄か(にわか)に失す。

 まとめ 【まとめ意訳】

《集仙錄》に云う、驪山(りざん)の老姥は、いつの時代の人物か不詳。李筌は神仙の道を好み、日ごろから名山めぐりをして、方術(神仙術、法術、易占などの術)をひろくあつめた。

ある日、嵩山の石室の壁中に至り、密封された黄帝《陰符經》と本絹製の《素書》を得た。壁にこう書かれていた「大魏(北魏、後魏)の真君2年(元号:太平真君2年=441年)7月7日、道士の冠謙之(365年~448年)が名山にこの書を埋めた、好みが同じであれば用いて伝えると良い。」李筌は不曉(ふとう。曲がらない心)の義を理解した。

この出来事を手がかりに秦の驪山を訪れて、そしてひとりの老母に出会った。老母のあたまは2つに結い分けた髪型をしていて、余った髪をたらし、ボロ衣装をまとい杖をつき、その姿は一般的なものと異なり神仙の気を帯びていた。

道はずれた場所に失火によって焼かれた樹木を見て、それをさして老母曰く「火は木から生まれ、禍(わざわい)がおこれば必ず克服する。」李筌はこの言葉を聞いて書《陰符經》を掲げて曰く「この黄帝《陰符經》に秘められた文言ですね。」老母曰く「わたしが授けられた時から360年(1080年)も経つ、若人は何によってこの書を得たのだ?」李筌は書から得た考えと、書を得た経緯について話した。そして玄義(おくぶかい意義)について教えを乞い、それを会得する事に尽力した。

老母はほどなくしてどこかへ去った。

 教養 ※扶杖=ふじょう。杖をついているさま。語出《史記・万石張叔列伝》、(唐)韓愈《人日城南登高》、《宋史・儒林伝七・真德秀》。※遺火=いび。失火のこと。または残された火種。語出《後漢書・逸民伝・梁鴻》《太平廣記・譚賓錄》※三元=さんげん。一年のうち上元、中元、下元の三つの節日。道教の行事に由来。※六週=ここでは甲子(干支の周期60年)を6回経たと解釈し、計360年。あるいは60年を1元と解釈した場合、3元で180年、それを6回経たとすれば、計1080年という解釈もできます。それぞれの数の解釈は、易に由来するとされます。※甲子=干支の周期は60年で、一巡した最初の年が甲子に該当。易に由来。

李筌の伝記(太平広記・神仙14)より

(北宋)《太平廣記・神仙14・李筌》より

李筌號達觀子、居少室山。好神仙之道、常歷名山、博採方術。至嵩山虎口巖、得黃帝《陰符經》本絹素書朱漆軸緘以玉匣、題云、「大魏真君二年七月七日、上清道士寇謙之、藏諸名山、用傳同好。」其本糜爛、筌抄讀數千遍、竟不曉其義理。因入秦、至驪山下、逢一老母、髮髻當頂。餘髮半垂。弊衣扶杖、神狀甚異。路傍見遺火燒樹。因自語曰、「火生於木。禍發必尅。」筌驚而問之曰、「此黃帝《陰符》上文、母何得而言之。」母曰、「吾授此符、已三元六周甲子矣、少年從何而得之。」筌稽首載拜、具告所得。母曰、「少年顴骨貫於生門、命輪齊於日角、血脈未減。心影不偏、性賢而好法、神勇而樂至。真是吾弟子也。然四十五當有大厄。」因出丹書符一通、貫於杖端、令筌跪而吞之。曰、「天地相保。」於是坐於石上。與筌說陰符之義。曰、「此符凡三百言、一百言演道、一百言演術、一百言演法。上有神仙抱一之道、中有富國安民之法、下有強兵戰勝之術、皆內出心機、外合人事。觀其精微。黃庭內景不足以為玄。鑒其至要、經傳子史不足以為文。孫吳韓白不足以為奇。非有道之士、不可使聞之。故至人用之得其道、君子用之得其術、常人用之得其殃。分不同也。如傳同好、必清齋而授之。有本者為師、受書者為弟子、不得以富貴為重、貧賤為輕、違者奪紀二十。本命日誦七遍、益心機、加年壽。每年七月七日、寫一本藏名山石巖中、得加算。」久之、母曰、「已晡時矣、吾有麥飯、相與為食。」袖中出一瓠、令筌谷中取水。水既滿矣。瓠忽重百餘斤。力不能制。而沈泉中。及還、已失老母、但留麥飯數升於石上而已。筌有將略、作《太白陰符》十卷、有相業、著《中台志》十卷。時為李林甫所排、位不顯、竟入名山訪道、不知所終。出《神仙感遇傳》

【原文語に則した訳】
李筌は達觀子を號し、少室山に居す。神仙の道を好み、常に名山を歷り、方術の採に博し。

嵩山の虎口巖に至り、玉匣を以て緘した黃帝《陰符經》、本絹の《素書》、朱漆軸を得る、題に云う「大魏(北魏)真君(太平真君)二年七月七日、上清道士の寇謙之、諸名山に藏す、同好なれば用い伝えよ。」其の糜爛の本、筌(李筌)は抄して讀むこと數千遍、竟に(ついに)不曉其の義を理む(おさむ)。

因りて秦に入り、驪山の下に至り、一老母に逢う、頂に髮髻を當て。餘り髮は半ば垂れ。弊衣に扶杖し、神なる狀は甚だ異にす。路(みち)旁(かたわら)遺火に燒かれし樹を見る。

因りて自らを語りて曰く「火は木より生じ、禍を發しては必ず尅つ。」

筌は驚しこれを問うて曰く「これ黃帝《陰符》の上文なり、母は何を得てこれを言うや。」母曰く「吾れこの符を授かること、すでに三元の甲子を六周せん、少年は何に従いてこれを得るや。」筌は首なる稽え(かんがえ)を載すを拝し、得るところを具告す。

母曰く「少年の顴骨(かんこつ)生門より貫き、命輪は日角より齊え(ととのえ)、血脈は未だ減らず。心の影に偏らず、性は賢して法を好み、神勇して楽に至る。これまこと吾の弟子なり。然るに大厄有るは四十五に當る。」

因りて丹書符を一通出し、杖の端より貫きて、筌は跪て(ひざまずきて)これを呑むを令す。

曰く「天地は相い保つ。」これにおいて石上に坐す。筌に説き陰符の義を与う。

曰く「この符およそ三百言、一百言は演道(教義の解明)、一百言は演術(術の解明)、一百言は演法(法の解明)。神仙の上にあるは抱一の道、中にあるは富國安民の法、下にあるは強兵戰勝の術、みな内なる心機より出でて、外なる人事に合す。その精微を観る。《黄庭内景》以て玄を為すに足らず。その要に至るを鑒み(かんがみ)なければ、經傳子史を以て文を為すに足らず。孫呉韓白を以て奇を為すに足らず。有道の士にあらざれば、これを聞かせしむべからず。ゆえにこの人を用いればその道を得るに至る、君子これを用いればその術を得、常人これを用いればその殃い(わざわい)を得る。分を同じきにせずなり。伝を同好するが如く、必ず清齋すれば而してこれを授く。本ある者は師を為し、書を受けし者は弟子を為す、富貴を以て重きを為せば得ざらず、貧賤は軽きを為し、違えし(たがえし)者は紀二十を奪われる。本命日を七遍誦じ(そらんじ)れば、心機を益し(まし)、年寿を加う。每年七月七日、写一本を名山の石巖中に、加算して得る。」

この久しきを母曰く「すでに晡時(ほじ、さるの刻、夕方4時頃)、吾に麥飯(麦飯)あり、あい与に(ともに)食を為さん。」袖の中より一瓠を出し、筌に谷中より水を取らんと令す。水すでに満すかな。瓠たちまち重くなること百余斤。力で制することあたわず。而して泉の中に沈む。還るに及ぶも、すでに老母は失し、ただ石の上に麥飯(麦飯)数升を留めるのみ。

筌に将略あり、《太白陰符》十巻を作し、あい業あるは、《中台志》十巻を著す。時に李林甫に排される所と為り、位に顯れず(あらわれず)、竟に(ついに)名山を訪れる道に入り、終る所を知らず。

出《神仙感遇傳》。

 まとめ 【まとめ意訳】

李筌は達観子を号として名乗り、少室山に住まった。神仙の道を好み、日ごろ名山をめぐり、方術(神仙術、法術、易占などの術)をひろくあつめた。

嵩山の虎口巖に至り、玉匣(美しい箱、または棺)に封じられていた黄帝《陰符經》と本絹製の《素書》、朱漆軸(あかく装飾されたペン)を得た。そこにはこう書かれていた「大魏(北魏、後魏)の真君2年(元号:太平真君2年=441年)7月7日、上清道士の寇謙之、諸名山に所蔵する、好みが同じであれば用いて伝えると良い。」その痛んだ書物を編纂しながら読むこと数千回、ついに不曉(ふとう。曲がらない心)の義を理解した。

例によって名山を巡りに秦の驪山へ訪れると、そこでひとりの老母に出逢った。あたまは2つに結い分けた髪型をあて、余った髪をたらし、ボロ衣装をまとい杖をつき、その姿は一般的なものと異なり神仙の気を帯びていた。

道はずれた場所に失火によって焼かれた樹木を見て、それをさして老母曰く「火は木から生まれ、禍(わざわい)がおこれば必ず克服する。」

李筌は驚き質問した「それは黄帝《陰符》の文言です、おばさんは一体何からこの言葉を得たのですか?」老母は言う「わたしがこの符を授かってから、すでに360年(1080年)経つ。少年は何に従ってこれを得たのだ?」李筌は会得した考えを伝え、書を得た経緯について詳細に話した。

老母は言う「少年は人相も良く、気も整っている。感情に偏らず、本性は賢く法を好み、勇敢であり安らかである。この姿はわたしの弟子としてふさわしい。しかし45の大厄がみえる。」

そういうと丹書符(赤い符)を一通とり出し、杖の先端で符を貫き、李筌にこれを飲み込めと指示した。

「天地は相い保つ。」と言葉を発すると石の上に座り、李筌に陰符の義を教えた。

このように伝わる「この陰符はおよそ300文字、そのうち100は演道(教義の解明)、100は演術(術の解明)、100は演法(法の解明)。神仙の上とすべきは抱一の道、中は富國安民の法、下は強兵戦勝の術、これらは全て内なる心の思いから出て、外なる人や事物に合す。それを精密に観察してみる。《黄庭内景》をただ読んでも玄(奥深い)行いを為すことはできない。その要旨に至る経緯を考慮しなければ、經傳子史などの学問をしたとして良い論文を為すことはできず、孫呉韓白など兵家の真似事をしても奇法を為すことはできないのだ。この道を会得したものでなければ、このような話は出来ない。この話が通じる道を得た者であれば、この者を用いた場合に道を得ることが出来る。いわゆる君子
を用いれば術を得る。常人を用いれば災いを得る。この分別を混同してはいけない。伝を好むようにして、必ず清らかにととのえることができる者であれば、これを授けることができる。本質を会得したものは師(指導者)となり、書を受け取る者は弟子となる。富と高貴によって大事を為そうとしても得ることは出来ない。貧賤によれば軽きを為すことができる。道を外れたものは罪によって20年のときが奪われる。本命日を7回暗誦すれば、心の思いは増し、寿命は延びる。毎年7月7日、写本を一冊、名山の石巖の中に加えて得る。」

おはなしが長時間に及んだことをさして老母は言う「もう夕方だ、わたしは麦飯を持っている、一緒に食べるとしよう。」そでの中からひょうたんを取り出し、李筌にこれに谷の水を汲んでこいと指示した。李筌が水を汲むと、ひょうたんはたちまち重くなり、自力で持っていることが出来ずにヒョウタンは泉の中に落ちて沈んだ。しかたなく戻ってみると、石の上に麦飯がいくつか用意されているだけで、老母はどこかへ去っていた。

李筌は用兵と謀略の心得があり、《太白陰符》十巻と《中台志》十巻を著した。あるとき李林甫の影響で官職を失うことになった。その後は官位に名が現われることなく(官位に就かず)、名山を探訪する日々をすごし、没年は不詳。

出典《神仙感遇傳》

 教養 ※少室山=嵩山の峰の名称。東峰が「太室山」、西峰が「少室山」と呼ばれる。※糜爛=びらん。表面が欠損している様子。腐朽の意。語出(漢)王充《論衡・書虚》《後漢書・寇栄伝》。※演道=教義の解明。語出(唐)吕岩《五言》。※抱一=真理がひとつにあつまったさま。語出《老子道徳経・十章》。※經傳子史=経書、春秋、左伝、伝記、諸子、史書などをさす。ここでの意味は学問のための学問では良い文章は作れない。※孫呉韓白=孫子、呉子、韓信、白起のこと。ここでの意味はただ兵家の真似事をしても奇法を学べない。韓白の語出(三國・魏)何晏《韓白論》。韓白は韓愈、白居易をさす使い方もされていますが、年代的にも文脈的にも不適当なのでここでは韓信、白起と解釈。※本命日=生年とおなじ干支の日。厄災に気をつける日。語出《続資治通監・宋仁宗嘉祐六年》。※將略=しょうりゃく。用兵と謀略。語出《三國志・蜀書・諸葛亮伝》~理民之干、優於將略。(~、民の干を理め、將略に優れた。)

李筌の伝記(郡齋讀書志・卷七・職官類)より

《郡齋讀書志・卷七・職官類》より

中臺志十卷、右唐李筌撰。起殷周、迄隋唐、纂輔相邪正之跡、分皇、王、霸、亂、亡五類、以為鑒戒。唐相以李林甫陳希烈附皇道。筌上元中自表、天寶初、迫以綴名云。


【原文語に則した訳】
中臺志十卷、右は唐の李筌の撰。殷周より起ち、隋唐まで、纂すること邪正の跡を相い輔けるも、分皇、王、霸、亂、五類を亡くし、以て鑒戒を為す。李林甫は陳希烈を以て唐相とし皇道に附す。筌は上元(唐高宗・李治:上元674年~676年)中に自表(辞表)、天寶(唐玄宗・李隆基:天宝742年~756年)の初、名を綴るを以て迫されたと云う。

 まとめ 【まとめ意訳】

《中台志》十巻は唐の李筌の撰。殷周から隋唐までの伝記を編纂し、邪正さまざまな事跡をまとめる助けとなったが、分皇、王、霸、亂、五類を亡くし、そのことを教訓とした。

李林甫は陳希烈を唐の宰相に担いで皇道に役立てた。李筌は上元(唐高宗・李治:上元 674年~676年)の期間中に自表(辞表)、天寶(唐玄宗・李隆基:天宝 742年~756年)の初頭、(李林甫の粛清対象リストに)名をあげられて迫られたと云う。

 教養 ※鑒戒=引用して教訓とする。語出《国语・楚语下》《後漢書・荀爽伝》《魏書・高允伝》。

李筌の伝記(神機制敵太白陰經・序)より

河東節度使都虞候臣李筌撰。

【原文語に則した訳】
河東節度使、都虞候、臣李筌の撰。

 まとめ 【まとめ意訳】

(太白陰經は)河東節度使の都虞候、臣下の李筌の撰。

 教養 ※都虞候=官名。唐代後期では藩镇(節度使)の信頼に足る武官を都虞候、または虞候につけた。以降宋に至るまで禁軍・高級軍官が都虞候、虞候の位につけられた。

乾元二年、四月二十八日。正議大夫、持節幽州軍州事幽州刺史並(并)本州防禦使上柱國臣李筌上表。夫《太白陰經》者、有唐少室書生李筌、常游名山、探奇術於嵩山虎口岩石壁中、得《黃帝陰符經》、遇驪山老姥、指明秘要、洞究深微、撰為兵書、名曰《太白陰經》。上宣天機、以為將家之軌則也。

【原文語に則した訳】
乾元二年(759年)、四月二十八日。正議大夫、持節、幽州軍州事、幽州刺史、并本州防禦使、上柱國、臣李筌が上表す。夫れ《太白陰經》は、唐の少室書生李筌にあり、常に名山に游し、嵩山虎口岩石壁中を奇術で探し、《黃帝陰符經》を得る、驪山老姥に遇い、秘要の明を指し、洞に深微を究め、兵書の撰を為す、名づけて曰く《太白陰經》。上に天機(天机、奥義)を宣べ(のべ)、以て将家の軌則(規則)と為すなり。

 まとめ 【まとめ意訳】

乾元二年(759年)4月28日。正議大夫、持節、幽州軍州事、幽州刺史、并本州防禦使、上柱國、臣李筌が書を献上した。

この《太白陰經》は、唐の少室書生・李筌の書、ひごろ名山を周遊し、嵩山の虎口岩の壁の中から奇術で探し当て、《黃帝陰符經》を得て、驪山の老姥に遇い、秘められし要旨を明らかにし、洞にこもり深微を究め、兵書の撰を為したもので、名づけて《太白陰經》とするものです。これにあらゆる奥義を述べており、以て兵家の模範となすことができます。

 教養 ※正議大夫=唐代の官位。文官の正四品上。※持節=将軍の権限を格付けする、使持節、持節、仮節のうちの中位。※州事=州の政を担当。※并本州=州名・地名。旧唐書に「并本州軍校」、(唐)李頻《黎嶽集》に「并本州縣」とある。※防禦使=官名。地方軍事長官。州防御担当。※上柱國=唐代の官位。勲の正二品。※少室=嵩山の峰の名称。東峰が「太室山」、西峰が「少室山」と呼ばれる。

李筌に触れた記述

《宋史・列伝・方技下・甄棲真伝》より

甄棲真字道淵、單州單父人。博涉經傳、長於詩賦。【中略】年七十有五、遇人、或以為許元陽、語之曰、「汝風神秀異、有如李筌。雖老矣、尚可仙也。」因授鍊形養元之訣、且曰、「得道如反掌、第行之惟艱、汝勉之。」 


【原文語に則した訳】
甄棲真、字は道淵。単州(ぜんしゅう)単父(ぜんほ)の人。経伝に博涉あり、詩賦に長じた。【中略】年七十と五、人に遇う、あるいは許元陽を以て為す、これ語りて曰く「なんじの風神の秀異、李筌の如くあり。老いたると雖も(いえども)、なお仙をすべきなり。」因りて養元の訣の鍊形を授く、且に曰く「反掌の如く道を得るは、第(科第、官吏登用試験)を行うことのこれ難し、なんじこれに勉めよ。」

 まとめ 【まとめ意訳】

甄棲真、字は道淵。単州(ぜんしゅう)単父(ぜんほ)の人。経書に博識ひろく、詩と韻文に長けていた。【中略】75歳ごろ、ある人に出会った、あるいはこの人物を許元陽ともいう。この人物が語りかけて言う「あなたの風の神のような特出した異才は、まるで李筌のようだ。老齢とはいえ、なお神仙の道を行くべきだ。」そのようにいうと元気培養の修練法を甄棲真に授けた。かさねて言う「手のひらを返すように簡単に道を得るということは、役人試験に受かることよりも難しい、あなたはこの修練に勉めよ。」

 教養 ※博涉經傳=経書の博識が広いこと。語出《後漢書・陳敬王羨伝》。※詩賦=しふ。詩と賦(韻文)。語出《四子講德論》《陳書・文學傳・陰鏗》。※風神=風神は風の神のこと、風伯・風師・飛廉・箕伯とも呼ばれる。出典《太公金匱》《周礼》。※秀異=特出した才能のこと。語出《漢書・食貨志上》、(南宋)劉義慶《世說新語・識鑒》または特出した才能を持つ人をさす言葉。語出《三國志・魏書・文帝紀》。※鍊形=修練の形態、修練の方法。語出《宋史・甄棲真伝》。※養元=元気を培養すること。語出《宋史・甄棲真伝》。※第=ここでは科第と解釈。科第は役人試験のこと。科第の語出(北宋)蘇軾《和邵同年戲贈賈收秀才》、《宋史・选挙志一》

(北宋~南宋)曾訸《集仙傳》

稱荃仕至荊南節度副史、仙州剌史。

 

【原文語に則した訳】
荃の仕えて称せしは、荊南節度副史、仙州剌史に至る。

 まとめ 【まとめ意訳】

李筌の仕官の位は、荊南節度副史と仙州剌史にまで至った。

 教養 ※荊南節度副史=荊南(江陵あたりの地方)の節度使(地方統治)の副官。※仙州=南陽と許昌のあいだに位置する叶县あたりの地を指す。唐玄宗・開元3年(715年)に叶县の地に仙州が置かれ、開元26年(738年)に廃止、許州に属し、やがて分割されて汝州にも属した。出典(唐)李吉甫《元和郡县志・汝州》

あとがき

李筌の官職について、《雲溪友議》では荊南節度判官郎中と鄧州刺史、《集仙傳》では荊南節度副史と仙州剌史、と違いがありながらどちらも節度使に関連する官と剌史に就いていたとしています。

《神機制敵太白陰經・序》では河東節度使都虞候、あるいはその臣として官についていたとし、「正議大夫、持節、幽州軍州事、幽州刺史、并本州防禦使、上柱國、臣李筌」とも記述されています。

これらを考慮すると以下のような可能性が考えられます。

  • 荊南節度判官郎中と鄧州刺史についていた
  • 荊南節度副史と仙州剌史についていた
  • 河東節度使都虞候についていた
  • 河東節度使都虞候の臣下だった
  • 正議大夫、持節、幽州軍州事、幽州刺史、并本州防禦使、上柱國。これら全てについていた
  • 正議大夫、持節、幽州軍州事、幽州刺史、并本州防禦使、上柱國ら6人と李筌が書を献上した
  • 上柱國の臣下だった

などなど。

それぞれの事実関係は無視して、それぞれなんらかの官職に就いていたことが伝えられています。時代も下った唐のころ、一介の民の書が後世に残るとは考え難いので、李筌は少なくとも何らかの官職に就いていたことは間違い無さそうです。

各々の記述が様々な李筌の才能を示しており、ミステリアスな生い立ちも加味されて、色々な可能性が浮かんでくる歴史ロマンにあふれた人物です。