老子一章よみくらべ・道とは何か?(帛書甲乙ほか)

老子関連

こちらは古典「老子道徳経」一章の原文・訳文および解説文です。4種のラベルに応じて以下のような読み方ができます。

ラベルの説明

底本は馬王堆帛書老子の甲本・乙本、王弼注本、河上公注本の4種の老子。それぞれの本文を比較しながら内容をご紹介します。帛書老子の欠損箇所は甲本・乙本がそれぞれを補い体裁を整えています。本文は白文に約物(句読点など)を加えています。

基礎説明
凡例
参考書籍
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道経1章 意訳

示すことができる「道(原理・うちゅうの法則)」は真の道ではない。示すことができる「名(言い表すことが出来るモノ・コト)」は真の名ではない。無名・無欲であれば微妙なものまで見ることが出来るが、有名・有欲に囚われていれば末端の現象しか見ることが出来ない。有と無の二つは、同じ根源から出たもので、この根源の奥深い深淵からは、もろもろの優れたはたらきをもつ様々なものが生まれてくるのだ。

 要約 【ざっくりいうと】表面に道は無い。道は奥深い所から生まれる。

活用ヒント(断章取義)

 活用 【活用ヒント】表面にとらわれるな、深いところを見よ。

道経一章 原文と訳文

帛書老子の甲本・乙本、王弼注本、河上公注本の4種の老子を読み比べていきます。

帛書老子甲本 道経一章(下巻)

【帛書:甲】道可道也、非道。名可名也、非名。无名萬物之始也、有名萬物之母也。[故]恒无欲也、以觀其眇、恒有欲也、以觀其所。両者同出、異名同、玄之有玄、衆眇之[門]。
【帛書甲本・書き下し】

道の道とす可きなるは、恒の道に非ず。名の名とす可きなるは、恒の名に非ず。名无きは萬物の始なり、名有るは萬物の母なり。[故に]恒に无欲なりて、以て其の眇を觀、恒に有欲なりて、以て其の噭の所を觀る。両者は同じきに出でて、名を異にするも同じきに胃い、玄の有る玄は、衆眇の[門なり]。

※恒の字をつかっているのが特徴です。漢の文帝(劉恒)の時代以前の書であることを示す根拠のひとつになっています。

 教養 ※道=道路、道理など。ここでは宇宙自然の原理、名として言い表すことの出来ない何か、など。下記参照。※恒=恒久。常と同義。※名=名称、言葉、概念などの言い表すことが出来るモノやコト。※无=無と同義。 ※萬物=さまざまな事物や事象。万物。※觀=観。みる。※噭=ゴウ。やかましく叫ぶ声、さわぐ、鳴き声。借字としては徼(キョウ。めぐる、もとめる)や、「敦煌唐人寫本老子道徳経残巻」では曒(キョウ。しろい、あきらか、かがやく)とも。※胃=臓器、こころ。そのままでは意味が通らないので、借字として謂の字におきかえられて読まれています。※玄=ゲン。くろ、暗い、天、奥深い、しずか、かすか、妙。※玄之有玄=そのままでは意味の通りが良くないので、乙本の玄之又玄(有を又に変換)をあてて読まれています。※眇=ビョウ。すがめ、小さい細かい、遠い。借字は妙。

帛書老子乙本 道経一章(下巻)

【帛書:乙】道可道也、[非道。名可名也、非]名。无名萬物之始也、有名萬物之母也。故恒无欲也、[以觀其眇]、恒又欲也、以觀其所。両者同出、異名同、玄之又玄、衆眇之門。
【帛書乙本・書き下し】

道の道とす可きなるは、[恒の道に非ず。名の名とす可きなるは、]恒の名に[非ず]。名无きは萬物の始なり、名有るは萬物の母なり。[故に]恒に无欲なりて、[以て其の眇を觀、]恒に又た欲なりて、以て其の噭の所を觀る。両者は同じきに出でて、名を異にするも同じきに胃い、玄の又た玄は、衆眇の門なり。

※恒の字をつかっているのが特徴です。漢の文帝(劉恒)の時代以前の書であることを示す根拠のひとつになっています。

王弼注本 道経一章(上巻)

【王弼注本】道可道、非道。名可名、非名。無名天地之始、有名萬物之母。故無欲、以觀其妙、常有欲、以觀其。此両者同出而異名、同之玄、玄而又玄、衆妙之門。
【王弼注本・書き下し】

道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始、名有るは萬物の母。故に常に無欲にして、以て其の妙を觀、常に有欲にして、以て其の徼を觀る。此の両者は同じきに出でて而かも名を異にし、同じき之を玄と謂い、玄にして又た玄は、衆妙の門なり。

※無名のくだりに天地というワードを使っていることが大きな特徴です。

 教養 ※常=通常、常久など。ここでは後者の意味。※天地=天と地、この世界。 ※妙=すぐれている、奥深い、はかりしれない働き。 ※徼=キョウ。めぐる、もとめる。 ※而=~をうけての意味。しこうして、しかして、しかるに、しかも。

河上公本 體道第一

【河上公本】道可道、非道。名可名、非名。無名天地之始、有名萬物之母。故無欲、以觀其妙、常有欲、以觀其。此両者、同出而異名。同之玄。玄之又玄、衆妙之門。
【河上公本・書き下し】

道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始、名有るは萬物の母。故に常に無欲にして、以て其の妙を觀、常に有欲にして、以て其の徼を觀る。此の両者、同じきに出でて而かも名を異にす。同じき之を玄と謂う。玄の又た玄は、衆妙の門なり。

※無名のくだりに天地というワードを使っていることが大きな特徴です。

 教養 ※體道第一=河上公本の一章につけられた見出し・タイトル。體(タイ)は体・躰と同義。からだ、すがた、かたちの意味を持ち、體道とは「道のかたち」「道の骨子」というような意味になります。

みどころ解説

わかりにくい言葉についてもう少し深く触れてみましょう。

道とはなにか?

本文を一読すると、まず「道」と「名」をどのように捉えれば良いかという疑問にぶつかります。これについては古代から近現代にかけて様々な史料で注釈がつけられています。今回はその一部をご紹介します。

「道可道」「名可名」つまり老子が言うところの『じゃない方の道』と『じゃない方の名』についての注釈。

【三国(魏)の学者、王弼】可道之道、可名之名、指事造形、非其常也。故不可道、不可名也。(道の道とすべき、名の名とすべきとは、指し示し形作ることができるというもので、常なる存在に非らざるものである。ゆえに道とすべからず、名とすべからぬものである。)
【漢(もしくは六朝)の人といわれる、河上公】謂経術政教之道也。謂富貴尊栄、高世之名也。(※道で無い道:いわゆる経術・学問と政治・教育の道である。※名で無い名:いわゆる家が富んでいて身分が高く栄え、ひろくしられる名のことである。)

王弼にくらべて河上公の注は、より限定的な言及をしていて、この部分だけを切り取ってみると「おかねもちへの僻み」のようにも見えますが、系統立てて道徳や法を広めようとする「儒家」「法家」への批判も込められてるとして見ることも出来ます。

 教養 ※富貴尊栄(とうきそんえい・ふうきそんえい)=繁栄を願うお祝いの言葉として書道の書・掛け軸などによく書かれる四字熟語です。
【清の学者、兪正燮】道は言詞、名は文字のこと。

老子以外で言及されている「道」からもヒントを得ることが出来ます。それぞれに言われている道を探ることで、間接的に老子の道を知るきっかけになるかも知れません。こちらも数あるうちの一部を紹介。

【礼記中庸篇】道也者、不可須臾離也。(道なるは、須臾(わずかの間)も離すべからず)
 教養 ※臾=ユ。ひきとめる、たちまち、わずかの間(須臾・シュユ)。児の旧字体。
【礼記中庸篇、南宋の儒学者、朱熹の注】道者、日用事物當行之理。(道は、日用の事物を當{まさ}に行うべくんば之を理{おさ}めん)日々行うべきことを行えば道をおさめられる
【荀子栄辱篇】君子道其常、小人道其怪。(君子の道は常、小人の道は怪し)

最後に老子内で「道」について言及している部分を抜粋してみます。

【老子四章】要約:道はからっぽだが、それが満ち足りるということはない。それはとても深く、万物の根源のようなものである
【老子十四章】要約:形が無い、音が無い、とらえられ無い、明るくも暗くも無い、後も先も無い。しかしこれを知ることで道の紀元を知ることができる。
【老子二十一章】要約:道はおぼろげだが、そのなかに何かが有る。そのなかには純真な精気があり、そのなかに確かなものがある。
【老子二十五章】要約:人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる。
【老子三十七章】要約:道は無為だが、事を為さぬことは無い。
【老子七十三章】要約:天の道は争わずして勝ち、言わずして応じ、招かずに来させ、構えながらにして謀る。

ざっくりまとめると「道はおぼろげで、うまく表現できないが、その力は大きい」このようなものと感じることが出来ます。この特性から、老子における「道」とは未だ解明されていない「何かの原理・何かの法則」なのではないかという解釈もできます。

恒と常 文字から感じる歴史ロマン

馬王堆漢墓から出土した帛書老子の甲と乙では「恒」の字、王弼本と河上公本などでは「常」の字がつかわれていて、両者に違いがある事がわかります。どちらも意味としては同じものですので、単に内容を読んでいく場合には違いがあったとしても大した問題ではありません。しかし、本がいつごろ作られたものなのか、という所に着目した場合には、このささやかな違いが大きな意味を持つことになるのです。

馬王堆漢墓というのは、漢代(前漢)の長沙国で大臣をつとめた利蒼(利倉・黎朱蒼)と妻子が埋葬された墳墓・墓所をさしています。帛書というのは絹に書かれた文書のことをいいます。この墓所に埋葬されたのは利蒼の没後(前186年以降)紀元前2世紀ごろと見られ、中には様々な貴重品も埋葬されました。そのうちのふたつが帛書老子の甲本と乙本になります。

このときの漢の皇帝は少帝恭(在位:前188年~前184年)で、初代の高祖(劉邦)から数えて3人目の皇帝でした。しかし政情は高祖(劉邦)の外戚である呂氏の専横によって不安定なものでした。その後に呂氏一族が重臣の陳平と周勃らによって打倒されて乱れが治まるのですが、そのとき立てられた皇帝が文帝(劉恒)です。在位は前180年~前157年で、その在位の間に利蒼の息子(名前:利?とも)が没し、前165年または前168年以降に埋葬されています。この息子が埋葬された墓所(3号墓)から帛書老子が出土しています。

このときの漢王朝では、書に用いる文字に皇帝の名前と同じ字の使用を避ける文化がありました。しかし帛書老子では「恒」の字がつかわれています。これはつまり3号墓所に埋葬された帛書老子が文帝(劉恒)以前の時代に作られた書であること(またはその根拠の材料として有力であること)を意味しているのです。

それと同時に、謎の多い「老子」というあやしげな書物が、国の墳墓に納められるほどの価値をもっていた事も意味しています。あやしげな書が価値を持ったのは、ひとえに内容の素晴らしさからだったのでしょう。著者や成り立ちの詳細がおぼろげなのに、内容が評価され広く伝播していく様は、じつに老子の「道」のはたらきとマッチしています。いろいろとロマンを感じずにはいられません。

天地と萬物 深さランキング

帛書老子の甲乙では無名は萬物の始、有名は萬物の母となっている部分について、王弼本と河上公本では無名は天地の始、有名は万物の母と表現のしかたに違いがあることがわかります。萬物と天地の変化の経緯は不明です。内容としては大きく意味を変化させるものではないので、どちらで読んでも差し支えありません。

帛書老子は始と母の2点だけの違いでそれぞれを表現していますが、王弼&河上公本では「天地」というワードが使われ、より明確に差が有ることを表現しています。

それは何の差かといえば「深さ」です。無名の方がより深い存在であることを示しているのだと考えられています。考え方には諸説あるのですけど、シンプルに老子の本文だけから推察することもできます。諸説にも引かれている該当箇所を抜粋してみます。

【老子三十二章】抜粋:道は常に無名。
【老子四十一章(帛書甲では40章)】抜粋:天下の万物(帛書甲乙:物)は有から生じ、有は無から生じる。
【老子四十二章】抜粋:道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生じる。

【帛書老子】ふかさランキング:道=無名=始>有名=母>萬物(万物)

さらに王弼&河上公本の「天地」をこれに加えて考えます。

【老子二十五章】抜粋:有物は混成し、天地に先じて生ず。~中略~ 以て天下の母となすべし。吾れその名を知らず、これに字して道と曰う。

まじりあってひとつに構成された「なにか」は天地より先に生じて、それは色んなものの母なる存在である。老子は便宜的にこれに道と名づけたとあります。まとめると『道>天地=母>萬物(万物)』という図式があらたに抽出されます。これを加えて考えると、

【王弼&河上公本】ふかさランキング:道=無名=始>天地=有名=母>萬物(万物)

という深さの格付けになります。帛書老子では無名と有名の深さの差がわかりにくかったのに対して、王弼&河上公本の「天地」をくわえた本文を見てみると、無名と有名の差もわかるかたちに表現されていることが分かります。

このように意味を大きく変えることなく、原文の表現が洗練されたかたちに変化していく現象は、老子に限らずさまざまな古典にみられることです。

両者とは何をさしているか

両者とは、どこの部分にかかっているのでしょうか? いわれてみると該当箇所がいっぱいあることに気がつきます。これについて様々な注がつけられていますので紹介します。

【魏(三国)の学者、王弼の注】要約:両者は始と母のこと。
【漢(もしくは六朝)の人といわれる、河上公の注】要約:両者は有欲と無欲のこと。
【南宋の道士、《老子道德經古本集注》の著者、范應元の注】要約:両者は常無と常有のこと。
【北宋の政治家&文学者、王安石の注】要約:両者は同じき道より出た有と無のこと。

その他、其妙と其徼や対語すべてにかかっているとする考え方もあります。

衆妙之門

「玄のまた玄」「玄にして玄」両方とも奥深い深遠・深淵のことをさしていて、差があっても意味を大きく変化させるものではありません。衆妙とはもろもろの素晴らしい働きのことで、衆妙之門とは素晴らしい働きが門から出てくることを言います。あわせると「深遠から素晴らしいはたらきが出てくる」となります。

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