こちらは古典「老子道徳経」二章の原文・訳文および解説文です。4種のラベルに応じて以下のような読み方ができます。
ラベルの説明
要約 要約をまとめます。初心者の方の理解も助けます。
活用 活用のためのヒントを抽出します。要点と活用ラベルだけを読み流して、格言鑑賞のような楽しみ方も出来ます。
格言 よく知られる格言や熟語などを抽出します。
教養 言葉の意味・解釈の云われ・説の出典などを紹介します。ちょっと深いところも知りたい中級者向けのコンテンツです。教養ラベルだけを流し読みして語彙(言葉のボキャブラリー)を増やす楽しみ方もできます。
底本は馬王堆帛書老子の甲本・乙本、王弼注本、河上公注本の4種の老子。それぞれの本文を比較しながら内容をご紹介します。帛書老子の欠損箇所は甲本・乙本がそれぞれを補い体裁を整えています。本文は白文に約物(句読点など)を加えています。
基礎説明
【書物・テキスト】
今回扱う老子は4種「馬王堆帛書老子の甲本・乙本、王弼注本、河上公注本」です。馬王堆帛書老子は墓所から出土した老子で、漢代の初頭あるいはそれ以前につくられたとみられています。帛書老子には甲本・乙本の2書があり、欠損箇所があって完全な姿では残っていませんが、古来の老子をつたえる貴重な史料です。王弼注本は魏(三国)の時代につくられたとみられ、河上公注本は漢あるいは六朝の時代あたりにつくられたものとされています。いずれの書の本文も内容はあまりかわらないものの、細かな差異に注目すると、単に本文を読むのとまた違うおもろしろさに出会うことができます。
【老子の作者】
証拠に乏しい為、候補はあれど不明であるという見方が一般的です。単数なのか複数なのかもハッキリしません。
司馬遷の「史記」では数人の老子候補が挙げられています。老子の作者候補一人目は李耳(あざなは聃、タン。あるいは伯陽) 、図書館の役人をしていた人物で図書館に訪れた孔子の質問に答えたと云います。候補二人目は老莱子。道家の理論の応用を説いていたとき孔子と同じ時代であったとも云う、といわれます。三人目は孔子没から219年後の太史?(タン)という人物で、この人物が老子ともそうでないとも云われる、といわれます。候補以外には老子本人の実像とは裏腹やけに詳細な子孫の紹介もあり、老子は160余年生きたとも200余年生きたとも云う、というにわかに信じ難い神仙の色味を帯びる伝説も記されていて、既にこの時代から謎の多い人物であったことが伺えます。
凡例
【凡例】帛書の欠損部は[大カッコ]で囲まれて甲乙がそれぞれを補い体裁をととのえます。※マークでは言葉の意味などの補足がつけられます。
参考書籍
【参考書籍】
「帛書老子校注」/中華書局
「老子道徳経河上公章句」/中華書局
「広漢和辞典」/大修館書店
関連 老子一章/
老子三章
関連 老子全訳
関連 王弼の伝記の原文と訳文
道経2章 意訳
人々は美を美と認識しているがそれは美ではない。善を善と認識しているがそれは善ではない。有と無はおたがいの存在があってこそ生まれ、難と易はおたがいの存在があってこそ成立し、長と短はおたがいの存在があってこそ形成され、高と下はおたがいの存在があってこそ傾差があらわれ、音と声はおたがいの存在があってこそ調和し、先と後はおたがいの存在があってこそ順序づけられる。これを理解した聖人は無為に居て不言の教えを行う。万物がうごいても発言せず、生じても有るとせず、行ってもしがみつかず、成功しても留まらない。このように居すわることに執着しなければ、失い離すことにもならないのだ。
要約 【ざっくりいうと】ものごとは相対的なもので、仕組みを理解した聖人は無為不言を行い執着せず自然にふるまう。結果失うことは無い。
活用ヒント(断章取義)
活用 【活用ヒント】ものごとの相対性を理解し、おごらず腐らず調和をとれば失敗しない。
道経二章 原文と訳文
帛書老子の甲本・乙本、王弼注本、河上公注本の4種の老子を読み比べていきます。
帛書老子甲本 道経二章(下巻)
【帛書:甲】天下皆知美爲美、惡已、皆知善、訾不善矣。有无之相生也、難易之相成也、長短之相刑也、高下之相盈也、意聲之相和也、先後之相隋、恒也。是以聲人居无爲之事、行[不言之教]。[萬物作而弗始]也、爲而弗志也、成功而弗居也。夫唯居、是以弗去。
【帛書甲本・書き下し】
天下皆美の美たるを知るも、惡のみ、皆善を知るも、訾れ不善のみ。有无これ相い生ずる也、難易相い成る也、長短相い刑る也、高下相い盈す也、意聲相い和す也、先後これ相い隋うは、恒也。是を以て聲人は无爲の事に居り、[不言の教を]行う。[萬物作るも而も始せず]也、爲すも而も志せず也、功を成すも而も居らず也。夫れ唯だ居り、是を以て去らず。
※訾・盈・志の字の使用と、夫唯居のくだりに弗(不)が無いのが特徴です。
教養 ※訾=シ。なまけ、そしる、思う、わるい。異体字は訿。ここでは借字に乙本で使われる斯(シ)をあてて「これ」とよむと通りがよくなります。※矣=文末で使われる場合には断定や感嘆などを示す。訳するときは読まずに流すこともできます。※无=無。※刑=ケイ。罰をくわえる、模範、手本、ただす。借字に形(ケイ)をあてて、形成・形作るという意味で「あらわる」と読むことも出来ます。※盈=エイ。みちる、みたす、あまる。※意=こころ、おもい、かんがえ。意聲は甲本のままだと「内心と発言」の意味になり、乙本ほかで使われる「音」をあてると楽音と歌という意味になります。※聲=声。こえ、音律、声明。※隋=ズイ。謝肉のあまり、おちる、おこたり。借字に隨(ズイ)をあてて「したがう」と読むと通りがよくなります。※恒=常。※而=~をうけての意味。しこうして、しかして、しかるに、しかも。※弗=不。
帛書老子乙本 道経二章(下巻)
【帛書:乙】天下皆知美爲美、亞已、皆知善、斯不善矣。[有无之相]生也、難易之相成也、長短之相刑也、高下之相盈也、音聲之相和也、先後之相隋、恒也。是以■人居无爲之事、行不言之教。萬物昔而弗始、爲而弗侍也、成功而弗居也。夫唯弗居、是以弗去。
【帛書乙本・書き下し】
天下皆美の美たるを知るも、亞のみ、皆善を知るも、斯れ不善のみ。[有无これ相い]生ずる也、難易相い成る也、長短相い刑る也、高下相い盈す也、音聲相い和す也、先後これ相い隋うは、恒也。是を以て人は无爲の事に居り、不言の教を行う。萬物昔るも而も始せず也、爲すも而も侍まず也、功を成すも而も居らず也。夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。
※文字が化けている場合の補足 ■は[耳口]
※盈・と昔の字の使用しているのと、他で惡としている部分に「亞」があてられているのが特徴です。
教養 ※亞=ア。亜。みにくい、つぎ、次ぐもの。※斯=これ、このような、かく、すなわち。※■=セイ。耳へんに口。聖と同義。※昔=セキ。むかし、さきごろ、先日、よる、ゆうべ。「作」をあてて「つくる・おこる」と読むと通りがよくなります。※始=はじめ、おこり。※萬物昔(作)るも而も始せず=万物を作っても作ったとせず。万物をおこしてもおこしたとせず。※侍=ジ。はべる、さぶらう、従う。借字に恃(ジ)をあてて、依存しない・頼らないという意味で「たのまず」と読むと通りがよくなります。
王弼注本 道経二章(上巻)
【王弼注本】天下皆知美爲美、斯惡已、皆知善之爲善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而弗辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
【王弼注本・書き下し】
天下皆美の美たるを知るも、斯れ惡のみ、皆善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。故に有無相い生じ、難易相い成り、長短相い較れ、高下相い傾き、音聲相い和し、前後相い隨う。是を以て聖人は無爲の事に處し、不言の教を行う。萬物ここに作るも而も辭せず、生ずるも而も有とせず、爲すも而も恃まず、功成るも而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。
※較の字の使用と、帛書乙と比較して始の部分で辭(辞)を使用しているのが特徴です。
教養 ※較=カク。くらべる、あきらか、おおむね。ここでの「較」は「形」と解釈されていて(1.清の官僚・歴史家、《続資治通鑑》の著者、畢沅の説。2.中国の学者、老子校诂などの著者、蒋錫昌の説。などなど)「あらわれ」と読むことが出来ます。※傾=かたむき。傾差。※隨=ズイ。したがう。※處=処。※辭=辞。ことば、ことわり、あいさつ、礼。ここでは「不言」のワードにかけて言葉・言辞の意味にとるのが一般的です。「万物がおこってもことばせず」
河上公本 養身第二
【河上公本】天下皆知美之為美、斯惡已、皆知善之為善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭。生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫惟弗居、是以不去。
【河上公本・書き下し】
天下皆美の美たるを知るも、斯れ惡のみ、皆善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。故に有無相い生じ、難易相い成り、長短相い形れ、高下相い傾き、音聲相い和し、前後相い隨う。是を以て聖人は無爲の事に處し、不言の教を行う。萬物ここに作るも而も辭せず、生ずるも而も有とせず、爲すも而も恃まず、功成るも而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。
※意味通りのよい「形」の字の使用と、帛書乙と比較して始の部分で辭(辞)を使用しているのが特徴です。
教養 ※養身第二=河上公本の二章につけられた見出し・タイトル。養はやしなうこと、身は自身のことで「身を養う」という意味になり、身の振り方の修め方や身の置き所の養い方などと解釈が出来ます。
みどころ解説

わかりにくい言葉についてもう少し深く触れてみましょう。
盈と傾
一章の「恒」と「常」と同様、「盈」と「傾」も皇帝(漢の恵帝・劉盈)の諱(いみな・なまえのこと・真名)を避けた変化であるとも考えられます(馬王堆帛書整理組の考など)が、恒の字とちがい、盈の字は王弼注本や河上公本などの四章や四十五章でも使われており、恒の字とくらべると書の作成時期を示す根拠としては薄いです。
一見して分かり難い表現の「高下相い盈す(みたすorあます)」とは、高いところにある水が低いところへ流れ込んでくるイメージ、中間で水準を設けた場合に高いところと低いところが目立つイメージなどに捉えれば理解できると思います。これらは要するに「傾き」の効果を述べているのであり「傾」に通じることになります。
無為と不言 聖人のふるまい
道を理解した聖人は「無為」に身をおき「不言」の教えを行う。とありますが、無為や不言とは何なのでしょうか。その理解のためのヒントが老子の他章にありますので紹介します。
【帛書老子三十四章】要約:聖人のよく偉大さを成すのは、終始みずからを大とせず、ゆえによくその大を成す。
【老子五十一章】要約:生み出して有せず、為してたのまず、長となってしきらず。これを玄徳という。
【老子五十七章】要約:聖人はいう、我れ無為にして民おのずから感化し、我れ静を好みて民おのずから正し、我れ無事にして民おのずから富み、我れ無欲にして民おのずから素朴なると。
「自分から大きく見せずに大きくなる」「成し遂げてもその優位性を行使しない」「上に立っては無為の立場に身をおいた効力で(自然と)民をコントロールする」このようなものであるようです。「控えめなカリスマ」「背中で語る」「言葉で動かすのではなく魅力で動かす」こんな感じのカッコよさがイメージされます。どうやら「無為」「不言」をおこなえば「道」のはたらきの恩恵を受けられるようです。
「無為」の言葉を「何もしないこと」「高みを目指さないこと」のように捉えることもできますが、老子では「聖人は自ら大とせずに大を成す」「生み出して有せず」「為してたのまず」「無為を為す」というように言い、成し遂げること・行動すること自体を否定はしていません。ですので老子のいう「無為」の本質はそれとは違うところにあることが分かります。
始と辭(辞)
帛書乙本では「萬物昔るも而も始せず也」万物がおきてもおこしたとせず、という意味です。時代を下った史料の「敦煌唐人寫本老子道徳経残巻(写本)」「遂州道徳経碑(石刻本)」「傅奕道徳経古本篇」でも不爲始となっていて「始」の字が使われており、同じ様な意味になっています。
王弼注本と河上公本ほか多数の史料では「萬物ここに作るも而も辭せず」万物がおきてもことばせず、という意味で「辞」の字が使われています。
前者は「無為」にかかった説明、後者は「不言」にかかった説明文になっていて対照的ですが、どちらも道の働きについての説明ですので、両者の言葉は違っていても意図するところは一致しています。
関連 老子一章/
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