孫子兵法の著者と言われる孫武の伝記を「史記」と「呉越春秋」から紹介します。
「史記」は作者の司馬遷が過去の出来事を取材しまとめた歴史書、「呉越春秋」は後漢の趙曄が作者で内容に物語・文学要素を含んだ歴史書です。
孫武の伝記 史記より
「史記」からは孫武の本伝部分と、孫武を起用した呉王の闔閭(コウリョ。闔廬とも)との絡み部分から孫武の伝記をもとめることができます。
史記 孫武の本伝部分
孫子武者、齊人也。[一]以兵法見於呉王闔閭。闔閭曰、子之十三篇、[二]吾盡觀之矣、可以小試勒兵乎。對曰、可。闔廬曰、可試以婦人乎。曰、可。
孫子、武(孫は姓、武は名、子は敬称)は、斉の出身。[一]兵法により呉王の闔廬に見えた。闔廬が言う、「先生の著した十三編、[二]よくよく読ませてもらったが、試しにちょっと兵を指揮してはもらえまいか」。応じて孫子、「よろしゅうございます」。闔閭が言う、「婦人(寵姫や女中)で試すことができようか」。「可能でございます」
[一] 正義魏武帝云。孫子者、齊人。事於呉王闔閭、為呉將、作兵法十三篇。
※1 史記正義に云う。魏武(曹操)の注によれば、孫子は斉の出身。呉に仕える為に呉王へむけ、兵法十三編を著した、という。
[二] 正義七録云孫子兵法三卷。案、十三篇為上卷、又有中下二卷。
※2 史記正義に云う。七録によれば孫子兵法は三巻ある。推察するに十三編は上中下の三巻で構成されるのだろう。
※解説 二つの注、いずれも孫子兵法は十三編としていますが、ほかにも正史「史記」の次の「漢書」では呉孫子の82編、斉孫子の89編のふたつが存在するとする記述がみえます。もともと13編とする説や、もともと13編でないとする説などがあり、13編が時代を経る過程で編数が増えてきて、もとの13編に魏武(曹操)が再編集したとする説もあります。
於是許之、出宮中美女、得百八十人。孫子分為二隊、以王之寵姫二人各為隊長、[三]皆令持戟。令之曰、汝知而心與左右手背乎。婦人曰、知之。孫子曰、前、則視心。左、視左手。右、視右手。後、卽視背。婦人曰、諾。約束既布、乃設鈇鉞、卽三令五申之。於是鼓之右、婦人大笑。孫子曰、約束不明、申令不熟、將之罪也。復三令五申而鼓之左、婦人復大笑。孫子曰、約束不明、申令不熟、將之罪也。既已明而不如法者、吏士之罪也。乃欲斬左古隊長。
ここに許可され、宮中の女子、180人の指揮権を得る。孫子は2隊に分け、王の寵姫ふたりを各隊の隊長とし、[三]皆に戟を持たせた。孫子これに令す、「ぬし達、己の胸、己の両手、己の背を知っておるか」。女子たちが、知っている、と答えると孫子は言う、「前と合図すれば胸を見よ。左と合図すれば左手、右と合図すれば右手を見よ。後ろと合図すれば背を見るのだ」。
女子たちは許諾し、合図の打ち合わせが終わると斧鉞(王が認めたという証の品)を持ち、合図を何度も確認した。そのうえで右の合図を送った、が、女子たちは大いに笑い合うのみであった。孫子が言う、「取り決め不明瞭、命令不行き届きは将たる私の罪だ」
ふたたび何度も合図の打ち合わせを行い、左の合図を送った、が、女子たちはまた大いに笑い合うのみであった。孫子が言う、「取り決め不明瞭、命令不行き届きは将たる私の罪だ。しかし、既に取り決めが徹底していながら、命令が行き届かぬのは、長たる役目の罪である」。孫子は左右の隊長を斬に処そうとした。
[三] 索隱上音徒對反。下音竹兩反。
※3 史記索隱に云う。上役の言葉は徒對(行為)で返答する。下役の言葉は竹両(ふたつの竹・二つの符・竹の書)で返答する。
呉王從臺上觀、見且斬愛姫、大駭。趣使使、[四]下令曰、寡人已知將軍能用兵矣。寡人非此二姫、食不甘味、願勿斬也。孫子曰、臣既已受命為將、將在軍、君命有所不受。遂斬隊長二人以徇。用其次為隊長、於是復鼓之。婦人左右前後跪起皆中規矩繩墨、無敢出聲。於是孫子使使報王曰、兵既整齊、王可試下觀之、唯王所欲用之、雖赴水火猶可也。呉王曰、將軍罷休就舍、寡人不願下觀。孫子曰、王徒好其言、不能用其實。於是闔閭知孫子能用兵、卒以為將。
呉王は高台から観察していたが、寵姫が斬られそうになるのを見ると、大いに慌てふためいた。使いを赴かせしめ、[四]命令した、「将軍がよく兵を用いることはよく解かった。しかしふたりの寵姫がいなければ、料理を食しても美味くない、どうか斬らずに願いたい」。孫子は言う、「それがし、すでに命を受けて将となりましてございます。将が軍にあっては、君命を受けざる場合もございます」。ついに隊長二人を斬に処し見せしめた。
次の隊長を任命し、また合図を送った。女子たちは左右前後、立ち居、打ち合わせ通りに整然と行動し、あえて声を立てるものは無かった。孫子は使いを立てて王に報告した、「兵は既に整いました、王よ試しにお下りご覧くださいませ、王の欲するままに用いることができます、水火の中に赴かせることも可能です」。
呉王が言う、「将軍、しばし宿舎に戻って休まれよ、私は下りて見物しようと思わない」。孫子が言う、「王はいたづらに其の言葉のみを好まれ、実際に用いることはなされないのでございますね」。こうして孫子の用兵を知った闔閭は、彼を将とした。
[四] 索隱趣音促、謂急也。下、使、音色吏反。
※4 史記索隱に云う。趣くに言葉を促すのは、急がせるのである。下役は使者に言葉で返答する。
西破彊楚、入郢、北威齊晉、顯名諸侯、孫子與有力焉。
西に強国の楚国を破り、楚の都の郢に入り、北に斉国と晋国に威を示し、諸国に名を轟かせたのは、孫子の力による所が大きかった。
史記 闔閭の伝から
抜粋1:光謀欲入郢、將軍孫武曰、民労、未可、且待之。
光(闔閭)が楚の都の郢を落とそうと謀った。将軍孫武が言う「民が疲れているのでまだ待つべきです」
抜粋2:闔廬謂伍子胥、孫武曰、始子之言郢未可入、今果何如。二子對曰、楚將子常貪、而唐、蔡皆怨之。王必欲大伐、必得唐、蔡乃可。闔廬従之、悉興師。五戦、楚五敗、遂入郢。
闔閭が伍子胥と孫武にむけて言う。「先生がたの言を開始し楚の都を落とすのは、果たして今であろうか?」二人が言う「楚の将、子常(囊瓦・ドウガ)は貪欲で、(属国の)唐国と蔡国は皆これを怨んでいます。王は楚を討伐すれば、かならず唐も蔡も得ることでしょう。」闔廬はこれに従い、ことごとく軍をおこした。五戦し楚は全て敗れ、ついに楚の都の郢に入った。
孫武の伝記 呉越春秋より
呉越春秋でも孫武本伝部分と上の項の抜粋1と2のエピソードが似たような形で語られています。呉越春秋では更にそれ以外の孫武エピソードも語られているので紹介します。
抜粋1:闔閭聞楚得湛慮之劔、遂使孫武、伍胥、白喜伐楚、抜六與濳二邑。
闔閭が楚を得んと湛盧之剣に聞き、ついに孫武、伍子胥、白喜(伯嚭・ハクヒ)を差し向け楚を討伐させ、村々を抜いた。
※湛盧之剣=たんろのけん。黒く済んだ宝剣。四字熟語。《越絶書》等にも登場。
抜粋2:楚使公子囊瓦伐呉、呉使伍胥、孫武撃之、圍於豫章、大破之。
呉は公子(夫差)に楚の囊瓦を討伐させ、呉の伍子胥と孫武がこれに出撃し、豫章の地において囲み大いにこれを破った。
あとがき
このように孫武が闔閭に仕えてから楚の都を落とすまでのエピソードが語られています。それ以降のことは語られておらず、いつまで孫武が呉に仕えていたのかは不明です。
呉国のその後は、ほどなくして本国を越国に攻められ、さらに弟の夫概が本国で反乱し、楚が秦と連合して郢の奪還に乗り出してきたため呉の本国に戻るほかありませんでした。どうにか乱を治めた呉王闔閭は10年ほど国力をたくわえて越国に逆襲しようとしました。しかし越王の勾践との戦いで戦傷を負い、それが元で没してしまいます。
後を継いだのは夫差です。夫差は一度越国を滅ぼす一歩手前まで行きましたが、伍子胥の進言を聞かずに越王勾践の命を助けてしまいます。その後は伍子胥と仲たがいし伯嚭の讒言(越国の離間の計とも)をうけて伍子胥を処刑します。孔子の弟子の端木賜(子貢)の縦横・外交策に翻弄され外征を繰り返し国力を落とした後に、臥薪嘗胆を胸に秘めた越王勾践に背後を突かれ、夫差とともに呉国は滅びることになります。
ここで孫武がいつまで呉に仕えたかを想像してみます。「北に斉国と晋国に威を示し、諸国に名を轟かせたのは、孫子の力による所が大きかった」という一文を最大限ふくらませて想像すると、闔閭のつぎの代の呉王である夫差にも仕えて滅びるまで呉に居た可能性があります。最小で考えると楚の都を奪ったのちの内乱などで戦死したのかもしれません。同じ様に重用された伍子胥のエピソードは残されているのに孫武のことは何も無いのは不思議とかんがえれば、人情が薄い人物と父の闔閭にいわれるほどの夫差の代で出奔し、どこかに隠遁したのかもしれません。どれも想像の域を出ない話ですけども、多く語られないからこそのロマン・想像の楽しみがありますね。