王弼の伝記(原文と訳文)三国志魏書・鍾会伝(裴注)より

老子関連

「老子」と「易」に注をつけた王弼の伝記を「三国志」裴松之注から紹介します。

「三国志」は作者の陳寿が三国時代の出来事を取材しまとめた歴史書で、裴松之は後年「三国志」に注をつけた人物です。

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王弼の伝記

王弼の伝記は「三国志」鍾会伝の裴松之の注(裴注)から求めることが出来ます。厳密には何劭が伝える王弼の伝記を裴松之が引用する形で語られています。

【凡例】本文、書き下し、訳文という構成になっています。書き下し部分は枠内に表示されていて、スクロールすることで全文見ることが出来ます。

※参考書籍=「三国志」/中華書局

三国志・魏書・鍾会伝の終盤より

會嘗論易無互體才性同異。及會死後、于會家得書二十篇、名曰道論、而實刑名家也、其文似會。初、會弱冠與山陽王弼並知名。弼好論儒道、辭才逸辯、注易及老子、為尚書郎、年二十餘卒。

【原文語に則した訳】
会(鍾会)は「《易》に互体無し」「才(才能)と性(本性)の同異」について論(論文にすること)を嘗した(こころみた)。会(鍾会)の死後におよびて、会(鍾会)の家において書二十篇を得て、ここに道論と名し(命名し)、しかして実(内容)は形名家なりて、その文は会(鍾会)に似たり(その文体は鍾会のものに似ていた)。初(むかし)、会(鍾会)は弱冠にして与(仲間)の山陽の王弼と並び名が知られた。弼(王弼)は好んで儒(儒家)と道(道家)を論じ、辞に才し弁逸し(言葉に才能があり弁舌は秀逸で)、易および老子に注し、尚書郎と為るも、年二十余で卒した(没した)。

 まとめ 【まとめ意訳】
鍾会は易に互体無しという論文と、才能と本性の同異についての論文を著した。鍾会の没後、鍾会の家から二十篇の書がでてきた。これに道論と名づけた。内容は形名家で、鍾会の文体と似ていた。むかし鍾会は幼年ながら王弼と並んで名前が知られた。王弼は好んで儒家と道家について論じ、文才と弁才があり、易と老子に注釈を加え、尚書郎に就任したが、わずか20余歳で夭折した。
 教養 ※會=会。※體=体。※于=ここでは「~において」という意味にとります。※實=実。※刑=借字:形。※辭=辞。ここでは言葉・言辞の意味にとります。※辯=弁。※尚書郎=尚書台という文書や祭礼や朝儀などをあつかう部門の所属。エリート官僚。

官位参照=《漢書・百官公卿表》《後漢書・百官志》《洪飴孫・三国職官表》

裴松之の注(何劭が著した王弼の伝)

王弼、幼少より老子を好む

弼字輔嗣。何劭為其傳曰、弼幼而察慧、年十餘、好老氏、通辯能言。父業、為尚書郎。時裴徽為吏部郎、弼未弱冠、往造焉。徽一見而異之、問弼曰、「夫無者誠萬物之所資也、然聖人莫肯致言、而老子申之無已者何?」弼曰、「聖人體无、无又不可以訓、故不説也。老子是有者也、故恆言無所不足。」

【原文語に則した訳】
弼(王弼)あざなは輔嗣。何劭の為したその伝に曰く、弼(王弼)おさなくして慧(かしこき・知恵)を察し、年十余にして、老氏(老子)を好み、弁に通じよく言した。父の業(王業)は、尚書郎と為る。ときに裴徽(裴松之の祖先)は吏部郎と為りて、弼(王弼)いまだ弱冠にして、住まいにいたる。徽(裴徽)一見してこれを異(特別と)し、弼(王弼)に問うて曰く、「そもそも無は誠に萬物(万物)の資(もと・たね)の所なり、然るに聖人は言を致すに肯なく(言及することがなく)、而して老子はこれに已む無く申する(くりかえす)は何(なにゆえ)か?」弼(王弼)曰く、聖人は無を体(体得)し、無はまた以て訓すべからずして(教えることが出来ないので)、ゆえに説せずなり。老子これ有の者なりて、ゆえに恒に所なく言するに足らず(いろんなものに言及が絶えない)。」

 まとめ 【まとめ意訳】
王弼、あざなは輔嗣。何劭の著した伝にこうある、王弼は幼少から才気にあふれていて、年十余歳にして、老子を好み、弁に通じてよく語った。父の王業は尚書郎であった。当時、裴徽(裴松之の祖先)は吏部郎の官職に就いていて、幼少の王弼は彼の家に訪問した。裴徽はひと目にして王弼の才能を見抜き、こう質問した。「無は万物の始源だ、しかし聖人はこれに言及することなく、老子はくりかえし言及しているのは何故か。」王弼曰く、「道を修めた聖人は無を体得しており、無は教えることが出来ないから言及しない。老子は有の人間なのでいろいろ言及するのです。」
 教養 ※傳=伝。※恆=恒。※吏部郎=りぶろう。尚書(または吏部)部門の所属。人事などを担当。

官位参照=《漢書・百官公卿表》《後漢書・百官志》《洪飴孫・三国職官表》

王弼、何晏に推されるも尚書郎に留まる

尋亦為傅?所知。于時何晏為吏部尚書、甚奇弼、歎之曰、「仲尼稱後生可畏、若斯人者、可與言天人之際乎」正始中、黃門侍郎累缺。晏既用賈充、裴秀、朱整、又議用弼。時丁謐與晏爭衡、致高邑王黎於曹爽、爽用黎。於是以弼補臺郎。初除、覲爽、請閒、爽為屏左右、而弼與論道、移時無所他及、爽以此嗤之。

【原文語に則した訳】
またまもなく傅?の知るところ所となった。ときに何晏は吏部尚書で、はなはだ王弼を奇(珍しい・優れている)とし、これに嘆(感嘆)して曰く、「仲尼(孔子・孔丘)は後生畏る可しと称し、かくのごとく人は、ともに天と人の際(きわ・奥深い様々なこと・際涯)を言する(語る)ことができる。」正始中(正始年間)、黄門侍郎を累して(かさねて)欠いた(欠員が出た)。晏(何晏)は既に賈充、裴秀、朱整を用いて、また王弼の用を議した(王弼の登用について審議した)。ときに丁謐と晏(何晏)は衡(横ざま・衡行)を争いて、高邑の王黎を曹爽に致し(つかわす・さしだす・推挙)、爽(曹爽)は黎(王黎)を用いた。ここにおいて以て王弼に台郎(尚書台の郎・尚書郎)を補した(官職を授けた・補任)。はじめおもむろに、爽(曹爽)に観し(まみえて)、閒(ひま・時間)を請い、爽(曹爽)は屏を左右と為し(戸を閉めて人払いをして)、而して弼(王弼)と道(道家)を論ずるも、とき移ろうに(時間がたっても)他に及ぶところ無く、爽(曹爽)はこれを以てこれを嗤した(冷笑・あざわらう)。

 まとめ 【まとめ意訳】
また傅?に評判が知れた。このとき何晏は吏部尚書の官職に就いていて、王弼をとても評価して、感嘆して言った。「孔子は後生おそるべしと称したが、このような人物は、ともに天と人の奥深いところまで語り合うことが出来る。」と。正始年間、黄門侍郎の職はかさねて欠員が出た。何晏は賈充、裴秀、朱整を登用して、さらに王弼の登用を議題に出した。このとき丁謐と何晏は勢力争いをしていて、高邑の王黎が曹爽に推挙され、曹爽は王黎を登用した。これよって王弼は尚書郎の官位を授かることになった。そして曹爽にまみえて、時間を請い、曹爽は人払いまでしたが、王弼との会話は道家について論ずるだけで、いつまでたっても話題が他に及ぶことは無かった。曹爽はこのことで王弼をあざわらった。
 教養 ※黄門侍郎=こうもんじろう。官位。少府所属で皇帝の左右の侍従をつとめる。

官位参照=《漢書・百官公卿表》《後漢書・百官志》《洪飴孫・三国職官表》

王弼、曹爽の専横に泣き王黎を恨む

時爽專朝政、黨與共相進用、弼通儁不治名高。尋黎無幾時病亡、爽用王沈代黎、弼遂不得在門下、晏為之歎恨。弼在臺既淺、事功亦雅非所長、益不留意焉。

【原文語に則した訳】
ときに爽(曹爽)は朝政を專し(専横)、党に与する共(一党に加担する仲間)を相い用い進めるも(互いに登用して昇進させたが)、弼(王弼)は通(道理)にすぐれて名を高めるに治めず(名声を売る行動をとらなかった)。ついで黎(王黎)とき幾ばくも無く病に亡くし、爽(曹爽)は王沈を黎(王黎)に代えて用い、弼(王弼)は遂に門下の在を得ずして(黄門侍郎に在籍が叶わなかったので)、晏(何晏)はこれに歎恨す(恨み嘆いた)。弼(王弼)の在臺(尚書台への在籍)は既に浅く、また事の功(事務方の働き)はもとより長ずる所に非ずして(得意ではないので)、益の意に留めず(役に立つと思われなかった)。

 まとめ 【まとめ意訳】
当時は曹爽が朝廷と政治を専横しており、一党は互いに登用しあって出世したが、王弼は道理をわきまえ名声を売るようなマネをしなかった。まもなく王黎が病没すると、曹爽は代わりに王沈を用いたので、王弼は黄門侍郎になれず、何晏は恨み嘆いた。王弼は尚書部門の在籍が浅く、またもともと事務仕事が得意でなかったので、役立つとは思われていなかった。

王弼、才有るも性質に難あり

淮南人劉陶善論縱橫、為當時所推。每與弼語、常屈弼。弼天才卓出、當其所得、莫能奪也。性和理、樂遊宴、解音律、善投壺。其論道傅會文辭、不如何晏、自然有所拔得、多晏也。頗以所長笑人、故時為士君子所疾。

【原文語に則した訳】
淮南の人、劉陶は善く縦横を論じ、当時から推される所と為す(推される立場であった)。しばしば弼(王弼)と語り、つねに弼(王弼)をくじく。弼(王弼)は卓出した天の才、その当たる所を得ると(該当・得意分野にハマると)、奪するにあたうことなき也(負かすことはできなかった)。性は和にして理(すじめ正しく)、遊宴を楽しみ、音律を解し、投壺(つぼに矢を入れるゲーム)よし。その道(道家)の伝うを会たる(解釈・学説)の論と文辞は、何晏に如かずも、然るに自ずと伐つを得る所有るに、晏(何晏)多し也。長ずる所のすこぶるを以て人を笑い、ゆえに時の士と君子の疾する(にくみ・疾視)所と為す。

 まとめ 【まとめ意訳】
淮南の人、劉陶は縦横(縦横家・外交戦略)をよく論じ、当時の人々から評価された。劉陶はしばしば王弼と語り、つねに王弼を論破した。王弼は卓越した才能をもっていて、それに該当する分野では、劉陶も破ることはできなかった。王弼の性格は穏やかにしてスジ目が正しく、酒宴を楽しみ、音律をよく理解し、投壺(つぼに矢を入れるゲーム)が上手であった。王弼は道家の説を論ずることと文章では、何晏に及ばなかったが、自ずと何晏を越えることも多かった。王弼は長所を鼻にかけ人を嘲笑することがあり、そのために当時の知識人から憎まれた。

 教養 ※頗=ハ。偏り。すこぶる。

王弼、鍾会らと聖人を語らう

弼與鍾會善、會論議以校練為家、然每服弼之高致。何晏以為聖人無喜怒哀樂、其論甚精、鍾會等述之。弼與不同、以為聖人茂於人者神明也、同於人者五情也、神明茂故能體沖和以通無、五情同故不能無哀樂以應物、然則聖人之情、應物而無累於物者也。今以其無累、便謂不復應物、失之多矣。

【原文語に則した訳】
弼(王弼)と鍾会は善きにし、会(鍾会)の論議は校(まなび)と練(ならい)を以て家(もと・根幹)と為すも、然るにしばしば弼(王弼)の高に服すに到る。何晏は聖人に喜怒哀楽無しと為すを以て、その甚だ精なるを論じ、鍾会等これに述す。弼(王弼)は与と同じきにせず、聖人の人より茂するものは神(心の働き)の明らかを以て為すものなりて、人と同じきものは五情(喜怒哀楽と怨または欲)なり、神の明が茂するがゆえに沖の和を体するを以て無に通ず、五情が同じきゆえに哀楽を以て物に応ずるにあたわざる無し、然るにすなわち聖人の情は、物に応じてして物に累するは無き也。今その累無きを以て、すなわちまた物に応じざると謂わば、これ多くを失す。

 まとめ 【まとめ意訳】
王弼と鍾会は仲がよく、鍾会の論議は学習と経験を基にしたものであったが、しばしば王弼の高度な論述に感服した。何晏は聖人に喜怒哀楽が無いことを受けて、そのはなはだ精密な論を展開し、鍾会たちはこれに同調して述べた。王弼は仲間達に同調せず、聖人が人より優れているのは心の働きを見通すことができる点であり、人と同じ点は五情(喜怒哀楽と怨または欲)であり、心の働きを見通すことにすぐれているからこそ沖虚の和を体得して無に通ずることができ、五情が同じであるからこそ哀楽の情によって物に対応せずにはいられなくなるので、つまり聖人の情というものは、物に対応しながらも物にしばられることは無いのである。いま其のしばられない事だけをみて、物に対応しないなどと言うのであれば、それは多大なあやまちである。と語った。

 教養 ※五情=喜怒哀楽と怨または欲。五つの感情。《礼記》の七情に由来する。

王弼、荀融に戯れて曰く

弼注易、潁川人荀融難弼大衍義。弼答其意、白書以戲之曰、「夫明足以尋極幽微、而不能去自然之性。顏子之量、孔父之所預在、然遇之不能無樂、喪之不能無哀。又常狹斯人、以為未能以情從理者也、而今乃知自然之不可革。足下之量、雖已定乎胸懷之內、然而隔踰旬朔、何其相思之多乎?故知尼父之於顏子、可以無大過矣。」

【原文語に則した訳】
弼(王弼)は《易》に注し、潁川の人、荀融が弼(王弼)の《大衍義》に難した。弼(王弼)はその意に答え、白書をもってこれに戲して曰く「そもそも幽微の極をたずねることの明足るを以て、しかして自然の性を去るにあたわず。顏子(顔回)の量は、孔父(孔子)のあずかり在る所なるも、然るにこれに遇うに楽なきにあたわず、これをうしなうに哀なきにあたわず。また常にこの人を狹とし、以て情を理に従わすに未だあたわずと為すもの也て、而して今すなわち自然の革めるべからざるを知る。足下の量は、胸懷の内にすでに定むといえども、しかして旬朔(10日ほど)の隔てをこえ、何ぞその相思うことの多きことや? ゆえに尼父(仲尼→孔子)の顏子(顔回)を知ること、以て大過なきとすべし。」

 まとめ 【まとめ意訳】
王弼は《易》に注釈したが、潁川の人、荀融が王弼の《大衍義》に難色を示した。王弼はそのことに答え、白書(木を削って白くした部分に書くもの)に戯言を書いた。「神妙で微妙なものを極めることができる明知をもっていても、自然の本質を取っ払うことはできません。顔回の器量は、孔子がすでに把握し体得しているものでしたが、しかし彼に会って楽しまないことなどなく、彼を亡くして哀しまないことなどありませんでした。わたしは孔子の器量は狭いと考え、感情を理性に従わせることができないものと思っておりました。ですがこのたび自然の情は(誰であっても)改められないことを知りました。貴殿の器量は、胸の奥にしっかりおさまってはいますが、10日ほどの間に、なんと色々なことをお考えになられたものでしょう。その行動から孔子が顔回を熱心に思うことと大差ないものだと知りました。」

王弼、王済に書を称えらるる

弼注老子、為之指略、致有理統。著道略論、注易、往往有高麗言。太原王濟好談、病老、莊、常云「見弼易注、所悟者多。」

【原文語に則した訳】
弼(王弼)は《老子》に注し、これに指略を為し(《老子指略》を著し)、理を統べるに有るを致す。《道略論》を著し、《易》に注し、往往に高く麗らかなる言有り。太原の王済は談を好み、老莊(老莊思想)に病むも(悩んでいたが)、常に云わく、「弼(王弼)の《易》注を見るに、悟る所多きものなり。」

 まとめ 【まとめ意訳】
王弼は《老子》に注釈し、《老子指略》を著し、その理論は筋が通っていた。《道略論》を著し、《易》に注釈し、よくよく高邁で麗句な言葉がつかわれた。太原の王済は談笑を好み、老莊思想(老子・荘子)の理解に悩んでいたが、つねづね「王弼の《易》の注釈は、理解を助けるものが多い」と言っていた。

王弼、司馬師に惜しまれ夭折す

然弼為人淺而不識物情、初與王黎、荀融善、黎奪其黃門郎、於是恨黎、與融亦不終。正始十年、曹爽廢、以公事免。其秋遇癘疾亡、時年二十四、無子?嗣。弼之卒也、晉景王聞之、嗟歎者累日、其為高識所惜如此。

【原文語に則した訳】
然るに弼(王弼)の人は浅き(あさはか)為に而して物情(世間・人の心情)をしらず、初に与(仲間)の王黎、荀融と善くするも(仲がよかったが)、黎(王黎)が其の黄門郎(黄門侍郎)を奪し、これにおいて黎(王黎)を恨み、また融(荀融)の与を終えず(友情を全うできなかった)。正始十年(249年)、曹爽は廃され、以て公事に免す。その秋に癘疾(らいの疾病)に遇い亡くす、時に年二十四(享年24)、子は無く嗣は絶える。弼(王弼)の卒なるは(亡くなったとき)、晋景王(司馬師)これを聞き、嗟歎(嗟嘆・なげき)は日を累し(日を重ね)、その識の高きところを惜しむと為すはこの如し。

 まとめ 【まとめ意訳】
しかし王弼の人柄はあさはかである為に人の心情をつかめなかった。はじめに同僚の王黎と荀融と仲良くしていたが、王黎が王弼より先んじて黄門侍郎に昇進するとこれを恨み、また荀融との仲は長く続かなかった。正始十年(249年)、曹爽が司馬懿のクーデターに破れ、何晏らも処刑されると、王弼は公の罪状で尚書郎を免職させられた。その年の秋に(当時の不治の病にかかり)24歳の若さで病没した。子は無く家は絶えた。王弼が亡くなったとき、晋景王(司馬師)は数日のあいだ嘆いた。人からその才能を惜しまれる様子はこのようなものであった。

孫盛の評(とても酷評)

孫盛曰、易之為書、窮神知化、非天下之至精、其孰能與於此? 世之注解、殆皆妄也。況弼以傅會之辨而欲籠統玄旨者乎? 故其敍浮義則麗辭溢目、造陰陽則妙賾無聞、至于六爻變化、羣象所效、日時歳月、五氣相推、弼皆擯落、多所不關。雖有可觀者焉、恐將泥夫大道。

【原文語に則した訳】
孫盛曰く、《易》の書なるは、神をきわめ化を知るものなりて、天下の精に至るにあらずして、そのいずれか此れに与するにあたうものなるや? 世の注解は、殆どみな妄なり。況や弼(王弼)はこれに弁し伝うを会すを以てして玄の旨を統べるに籠めるをや。ゆえにその義を浮かれ叙することすなわち麗辞は目に溢れ、陰陽(陰陽家)を造すことすなわち賾ろの妙を聞くに無く、六爻の変化に至るに、羣象(群象・もろもろ)の効く所、日時歳月は、五気に相い推されしものなるも、弼(王弼)はみな擯落し、関せずところ多きなり。観るべきもの有るといえども、おそらくそれ大道(道の本質・正なる道義)に泥するものなり。

 まとめ 【まとめ意訳】
孫盛曰く、《易》という書物というのは、神妙・神秘なるものを極めて変化を知るものであり、天下のうちよくこれに精通した人物でなければ、だれがこれに触れることが出来るものであろうか? 世の中の《易》の注釈や解説は、ほとんどみんな妄言(道理のなきいわれ・でたらめ)である。王弼については言うまでも無いが、触れることが出来ない《易》に対して注釈や解説をくわえ、奥深い内容を無理にまとめようとしているのである。ゆえに浮ついた論述をするときには美辞麗句を並べたて、陰陽家について起稿するときには賾ろの妙(深い内容)には触れない。六爻の変化とは、諸々の物がはたらき生まれる大元であり、日時歳月は五行の要素(木・火・土・金・水)の相関によって推移するものであるが、王弼はこれらのことについて触れずにいる所が多い。みるべきところも有るといっても、恐らくそれらは大道(道の本質・正なる道義)に泥をぬるようなものであろう。

 教養 ※賾ろ=おぎろ。広くて深いさま。※六爻=りっこう・ろっこう。爻とは卦(占術)につかわれる記号【-】【- -】のことで、六爻とは【-】【- -】の二つの記号を組み合わせて「上卦の天爻・人爻・地爻。下卦の天爻・人爻・地爻」の六種類の爻を構成したものです。爻や卦については《周易・易》《易経》などで触れられています。※五気=五行の気(元素)のこと。五行は木・火・土・金・水の五つの元素をさしています。五行思想は陰陽家の鄒衍が古来の伝聞をまとめたといわれ、書としては《易経》などで五行の詳細について見ることができます。※擯落=ひんらく。擯は排斥、棄絶(捨てて絶つこと)と解して捨てるあるいは除去するといったの意味。落は落選と解して選ばれず落ちるといった意味。まとめると「意思をもってわざと選ばずに捨て去ること」と解釈することが出来ます。擯落(摈落)という熟語の表現は《隋書》などでも使われています。

博物記より(血族について)

博物記曰、初、王粲與族兄凱?避地荊州、劉表欲以女妻粲、而嫌其形陋而用率、以凱有風貌、乃以妻凱。凱生業、業即劉表外孫也。蔡邕有書近萬卷、末年載數車與粲、粲亡後、相國掾魏諷謀反、粲子與焉、既被誅、邕所與書悉入業。業字長緒、位至謁者僕射。子宏字正宗、司隸校尉。宏、弼之兄也。

【原文語に則した訳】
博物記に曰く、むかし、王粲と兄族(いとこ)の凱(王凱)ともに荊州の地に避しとき、劉表は女(娘)を以て粲(王粲)の妻とするを欲し、而してその形(容姿)は陋(みにくい・醜陋)にして用(はたらき・行動)の率(あわただしき)を嫌い、凱(王凱)の風貌の有る(よい風貌を持っている)を以て、すなわち以て凱(王凱)の妻とす。凱(王凱)より業(王業)が生じ、業(王業)はすなわち劉表の外孫(そとまご)なり。蔡邕は萬卷(一万巻)に近き書を有し、末年に数車に載せ粲(王粲)に与え、粲(王粲)なきあと、相國掾(相国府の分局主任)の魏諷が謀反し、粲(王粲)の子が与し、既に誅を被りて、邕(蔡邕)が与えし書ことごとく業(王業)に入る。業(王業)あざなは長緒、位(官位)謁者僕射に至る。子の宏(王宏)あざなは正宗、司隸校尉。宏(王宏)は弼(王弼)の兄なり。

 まとめ 【まとめ意訳】
《博物記》にこう伝わる。むかし王粲といとこの王凱は荊州に避難(疎開)した。このとき荊州を統治している劉表は娘を王粲の妻にしようと考えた。が、王粲は容姿がみにくく行動も軽率なので、容姿のよい王凱に娘を嫁がせた。王凱の子の王業は劉表の外孫にあたる。蔡邕の一万巻ちかい書物を王粲に贈り、王粲なきあと、魏諷が謀反すると、王粲の子がこれに加わり処刑された。一万巻ほどの書物はことごとく王業のものとなった。王業のあざなは長緒、官位は謁者僕射にまでなった。その子の王宏はあざなを正宗といい、司隸校尉にまでなった。王宏は王弼の兄にあたる。

 教養 ※相國掾=しょうこくえん。官位。相国府の分局主任、官吏任用を担当。※謁者僕射=えっしゃぼくや。官位。光禄勲府(近衛)の所属、謁者(取り次ぎ役)の長。※司隸校尉=しれいこうい。官位。地方官で首都近郊の治安を維持する。

官位参照=《漢書・百官公卿表》《後漢書・百官志》《洪飴孫・三国職官表》

魏氏春秋より(血族について)

魏氏春秋曰、文帝既誅粲二子、以業嗣粲。

【原文語に則した訳】
魏氏春秋に曰わく、文帝(曹丕)すでに粲(王粲)の二子(ふたりの子)を誅し、以て業(王業)に粲(王粲)を嗣がす。

 まとめ 【まとめ意訳】
《魏氏春秋》にこう伝わる。魏の文帝(曹丕)は王粲の二人の子を処刑し、王業に家督を継がせた。

あとがき

以上が《三国志・鍾会伝裴注》に伝わる王弼の伝記です。王弼の名は他にも《後漢書》《晋書》に登場しています。

自分に正直に生きたが故に、出世の道は願い叶うことなく夭折した王弼でありますが、学術についてはとても生き生きとした活動をしていたことが伺えますね。後の世に続く功績としては「玄学」とよばれる《易》《老子》《荘子》について探求する学問の流れを作りました。この流れは三国から宋の時代までつづき、儒学・文学・史学にならぶ「四科」にまで玄学を押し上げました。その後は仏教の隆盛にともなって衰退したといわれています。また、老子などの注釈は現代にも伝わり、テキストとしては老子古来の原文を伝えるものとして今もなお重要とされています。

関連:老子よみくらべシリーズにて王弼が伝えた老子の原文と、王弼の注を一部取り扱っています。